宇野常寛著『ゼロ年代の想像力』(早川書房)を読み終えた

宇野常寛著『ゼロ年代の想像力』(早川書房)を読み終えた。東浩紀批判と宮台真司の依拠するルーマンのコミュニケーション論からの着想に立脚した(?)2000年代サブカルチャー批評として、今までにない視点が得られ、非常に面白く読めた。

ただ、当然の批判として、そもそもサブカルチャー批評そのものが、大多数の人々にとってはどうでもいい「島宇宙」であること、そして先日書いたように、宇野氏の大きな議論の展開そのものが教養主義的な成長指向を無条件に是認していること、そして、コミュニケーションの善悪の判断基準の問題を宙吊りにして、とにかくコミュニケーションの回路を開け!(=「ドアを開けろ!」)という結論が、それまでのセカイ系=決断主義批判に対する結論としてあまりに拙速なことなどがあげられる。
もちろん本書は、宇野氏の模索の出発点と見るべきで、これらの批判は「早すぎる」批判だ。これから宇野氏がどのように議論を展開していくのか、非常に興味深いところだ。
もう一つ、個人的に気になったのはリファレンスの偏りである。特に音楽がほぼ無視されている点だ。
例えば、クラブが自閉的な島宇宙なのか、異なる者とのコミュニケーションの可能性を担保する場なのかによって、クラブミュージックの評価は正反対になるはずだ。
そして浜崎あゆみや倖田來未の、根拠不明の圧倒的なカリスマ性や、音楽ジャンルの無意味と思われるほどの細分化、「ひとりカラオケ」という没コミュニケーションの形態などは、むしろ少女漫画や『仮面ライダー』より、多くの人々に身近な問題として提示できる。
いずれにせよサブカルチャー批評が音楽シーンを無視する理由が、まったく理解できない。この点は宇野氏に限らず、他のサブカルチャー批評にもあてはまる重大な欠陥だ。
サブカル批判は音楽を無視しないでほしい。