自殺手段の規制までお上頼みの無責任日本人

硫化水素自殺の材料に悪用された薬用入浴剤のメーカーが、ついに廃業に追い込まれたらしい。メーカーにとっては不本意に違いないが、日本人の間に手軽な自殺方法に対する潜在的な需要が強く存在する事実を無視することはできない。
なお、硫化水素で「きれいに」「楽に」死ねるというのはネット上の完全なデマで、呼吸器系の炎症による窒息でのたうち回りつつ死ぬのが事実らしい。
ただ、未確認の情報でも手軽に入手できる自殺の手段が見つかると、多くの人が群がるということは、日本人の間に楽に死ねる方法に対する潜在的な需要が相当あるということだ。
また、楽天市場で大量に鎮静剤を購入して自殺を図った19歳の青年が後遺症で寝たきりになったことから、医薬品の通販規制がさらに強まるのではと言われている。
僕は自殺の手段を自殺志願者から完全に奪うことができない以上、自殺手段の規制が自殺の防止にさほど有効とは考えない。
ましてその規制を立法に頼るというのは、単に「臭いものにフタ」をして、国家による情報の独占と制御を許し、かえって市民への情報公開や自主的な決定を阻害する結果になる。
医薬品のネット販売も、禁止するのではなく、許可した上で市民の側が、同じネットを使って情報共有や啓蒙活動を進めるのが適切だ。何でも法律で規制してくれと、お上に頼りつつ、他方でお役所の肥大化を非難する日本人は矛盾している。
また、常に自殺の手段を求めている自殺志願者にとって、倫理的な啓蒙活動の有効性はほぼ皆無と考えていい。「命の授業」的な訓話に感動したり共感できるのは、まだ自殺を考えるほど絶望していないということの証明だ。
以前からこの「愛と苦悩の日記」に書いていることだが、人生に既に絶望している人たちに対して、「生きたくても生きられない難病の人たちもいるんだから、健康な命は大切にしろ」という正論や、「あなたが苦しいのはよくわかる」という共感は、自殺への思いを捨てさせるのに何の役にも立たない。
それらの言葉は簡単に反論できるからだ。例えば「そんなことを言えるのは、あなたが本当に絶望していない証拠だ。本当に絶望していたら、そんな脳天気なことを言えるわけがない」など。
自殺念慮の絶望に追い詰められた人々と、それ以外の人々の間には、死者と生者の間と同じくらいの、意思疎通の不可能性が横たわっていると考えるべきなのだ。
ただし、本当は生きたいのに、さまざまな理由で自殺を選ばざるを得ない人たちは、自殺ではなく社会による他殺であり、自殺と見なすべきではない。こうした社会による他殺はセーフティーネットの整備で予防すべきである。
そうではなく、生き続けることの希望を完全に相対化していて、生きていても死んでも大差ないが、どちらかといえば死ぬ方が自分にとって望ましい、あるいは、このまま生き続けることは自分自身に対する屈辱であるなどと考える人たちの自殺は、将来、いつかは尊厳死として、管理された自死として制度化されるのが望ましいと思う。
残念ながら社会の厚みがいくら厚くなっても、すべての人がこの社会に適応できるわけではない。適応できない人が、例えば薬漬けになりながら、あるいは悲惨な生活状況にありながら、強制的に生き続けさせられるというのは、端的に不幸だからだ。