鶴山台は生きている

僕が小学生時代をすごした大阪府和泉市にある鶴山台という団地を、1年8か月ぶりにおとずれた。
前回は底冷えする2006/12で、記録をとるためにビデオ撮影しながらということもあり、散歩を楽しむどころでなかったが、今回は穏やかな秋の晴天で、思い出に浸りつつ散歩するには最適だった。
ちなみに2006/12のときの記事はこちらをクリック。
30年前に過ごした土地が、この2年弱でさして変わらないだろうと思っていたが、その間に当時の思い出が二つ消え去っていた。
一つはこのあたりにあった駄菓子屋
以前も書いたが、ともだちと当たり付きのガムやアイスを何度も買いに行った駄菓子屋の建物が、2年前にはあったのに、今回はなくなっていた。正確な場所もわからなかったが、どうやら駐車場になったらしい。
今年の夏、YouTubeに僕がアップしたこの動画の6:00あたりに、在りし日の駄菓子屋が映っている。
そしてもう一つは、そこから坂道を上がり切ってすぐのところにある珠算教室。2年前すでに閉鎖されていたが、こちらも取り壊されて駐車場になっていた。上述のYouTubeの動画の7:20あたりに、やはり取り壊される前のこの珠算教室が映っている。
大阪郊外のさびれた団地とはいえ、利益を生まない物件は利益を生む用途に転換される。
駐車場になった駄菓子屋や珠算教室など、単に個人の思い出としての価値しかないのだから、駐車場に変えられて当然。2年前に訪れて、最後の姿を映像に収め、YouTubeにアップできたのは幸運だった。
ただ、今回、鶴山台を訪れて、意外な喜びもあった。
前回、真冬に訪れたときは、団地の中で子供の姿を一人も見かけなかったが、今回は元気に遊ぶ子供たちをたくさん見ることができた。
鶴山台も高齢化が進んで子供がいなくなったのだと勘違いしていたが、僕が通っていた国際幼稚園(昔は経営者の名前を冠した嶋田幼稚園)の前の公園でも、当時のままの滑り台で、子供たちが遊んでいるではないか。鶴山台南小学校裏の惣ヶ池公園でも、キャッチボールをする親子がいた。
1号棟、2号棟横の、今はディリーカナートという名前のスーパーの中にある小さなマクドナルドで昼食をとったが、そこにも小学生が6、7人いた。2号棟の前でバレーボールをして遊んでいる子供たちもいた。
何だ、鶴山台もまだ生きているんだと思った。
1号棟、2号棟の商店街をぐるっと歩いていると、有線放送からalanの『RED CLIFF~心・戦~』が偶然流れてきた。僕にとっての今の時間と、30年前の時間が、alanの歌声で不思議と結ばれたようだった。
そして今回、北信太駅から鶴山台へ向かうとき、小学生のころ通っていた書道教室「書志塾」の前を通った。
2006/12に訪れたときは、玄関につながる門が閉じられ、古びた建物がひっそりしており、先ほどの珠算教室と同様、もう閉じてしまったのだと思った。
今回はその門が開いていたが、建物はひっそりと人気がなく、やはり教室は閉じたのだろうと前を通り過ぎた。
ところが、である。鶴山台のいちばん奥の配水所までぐるりと回って駅へもどる途中、書志塾の前を通るちょうどそのとき、今風のカジュアルなファッションをした小学生らしい女の子が、門の前で降りた自転車を押して門をくぐったのだ。
思わず後ずさりして、気づかれないように様子をうかがっていると、その女の子は玄関の前に自転車をとめ、30年前そのままの、古びた木製の引き戸を開けて中に入っていた。
今も30年前と同じように、「書志塾」で書道を習う子供がいたのだ。
その女の子が玄関の引き戸を入っていくとき、まるで彼女ではなく自分自身が入っていくような錯覚を感じ、教室の中のあの墨の匂いがあざやかによみがえった。
「ほんちゃんの日記」というブログに、「書志塾」の中塚如慧(にょけい)先生の作品展が、2008年夏、鶴山台団地にある「信太の森ふるさと館」で開かれたとある。もちろん小学生の僕が習っていたのも中塚先生だ。
どうやらこの「ほんちゃんの日記」というブログの筆者の方は、ご自身か、親族の方が鶴山台団地にお住まいらしく、今年の鶴山台の夏祭りの様子もブログに書かれている。
ところで、僕の母校、鶴山台南小学校も、今回はちゃんと「生きている」姿を見せてくれた。昔のままの体育館の中からは、バスケットかバレーボールかを練習する子供たちの甲高い声が聞こえ、グラウンドでは運動会の準備中だった。どうやら近くの幼稚園が小学校のグランドを借りて運動会をするようだ。
小学校の本館を見上げ、窓越しに6年生の教室の前の廊下が見えたとき、涙があふれそうになった。もうあのころは二度ともどらない。
ただ、あのころにもどって欲しいのかどうかはわからない。
実は今回、鶴山台に行く前、阪和線を三国ヶ丘駅で南海電車に乗り換え、白鷺駅で降り、小学生のころ無理やり通わされて、今でもちょっとしたトラウマになっている中百舌鳥スイミングスクールの「跡地」に30年ぶりに立ち寄ってきたのだ。
ダイキンの工場や中百舌鳥公園の池は30年前と変わりないが、ダイエーはコーナンに変わっており、スイミングスクールは跡形もない。
当時、中百舌鳥スイミングスクールといえば、おそらく日本有数の競泳選手を輩出し、50mプールの隅でシンクロの練習もよく目にしたので、関西地区の水泳競技のメッカといえる場所だったはず。
そのスイミングスクールの厳しい練習に、幼いながら死ぬ思いをして、その現実から逃避したい気持ちが、『銀河鉄道999』のメーテルに僕をのめりこませたと言ってもいい。
しかしその「跡地」は清潔な大規模ショッピングセンターと化し、昔の面影をまったく残していない。どのあたりがあの大きな50mプールだったのかさえ分からない。
中百舌鳥スイミングスクールをネットで検索して、面白い情報を見つけた。僕が通っていたころの女性コーチが、いまもスポーツインストラクタとして活躍されているようなのだ。
それは「己抄呼~Misako~の“健康エンターテインメント”」というブログの筆者の己抄呼さんだ。
別ページのプロフィールによれば、確かに1976年「競泳の強豪選手を作り出すことで当時有名だった中百舌鳥スイミング(ダイエーレジャーランド)に水泳コーチとして入社」とある。
ハスキーボイスで元気が良く、美人の女性コーチがいた記憶は確かにある。もしかするとこの己抄呼さんだったかもしれない。
なぜか一つ、鮮明に覚えている場面がある。50mプールの横に練習前の準備体操をする広い部屋があって、その女性コーチの指導の下、みんなで体操をしていると、一人の生徒が背中にイボがあるといってむずがり始めた。
すると女性コーチは自分の長い髪を一本抜き、イボの根元に髪の毛をくるっと巻いて左右に引っ張り、あっという間にイボをとってしまった。
スイミングキャップをとったときの、そのコーチの長い髪と、大声で指導するせいで完全につぶれてしまったハスキーボイスが強く印象に残っている。
Wikipediaによれば、ダイエーレジャーランド(現ファンフィールド社)は、1998年にスポーツクラブ運営事業をコナミスポーツ&ライフに譲渡したらしい。
こちらのページによると、どうやらいったんは50m×9コースという大規模のまま、コナミが運営を引き継いだが、ダイエーが現在のコーナンに改築されるときに取り壊され、道路を挟んで向かい側に、現在のコナミスポーツクラブなかもず店ができたようだ。これで経緯がはっきりした。
上記のページにあるように、たしかに50m×9コースというのは大阪で最大級の屋内プールで、僕が通っていたころも、競技会でない限り、通常は横20mのコースとして使っていた。
こうして調べていると、徐々に記憶がよみがえってくる。20mのコースをろくに息継ぎもできないバタフライで、何度も往復させられ、このままでは死んでしまうと思ったり、あまりのつらさに、おなかが痛いとウソをついてトイレに駆け込んだこともあった。
小学校4年生のとき、やっと両親の許しが出て、というより、中学受験に専念するということでスイミングスクールを辞めることができたときは、地獄の底から救われたような気分だった。
ただ、すぐに始まった受験勉強のために、妙に大人びた厭世観は引き継がれ、小学生の癖に世をはかなむようなことを口にしていたのを覚えている。
だめだ。小学生のころのことを書き出すときりがない。
ただ、いい季節に鶴山台をひとめぐりし、鶴山台がたしかに生きていることを確認できたのは何よりよかった。
やはり、できることならあのころに戻りたい。本当に幸福だった小学校5年生と6年生の、あの2年間に。
あれ以上幸福な時間は、これから先、僕の人生に二度とやって来ないと断言できる。もちろん、もう一度あの人に逢うことができれば、話は別だが、それはただのワガママというものだ。

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