日本メディアの見苦しい「中国あらさがし」報道

日本のテレビの北京オリンピック報道を見ていると、中国を見下す発言の多いこと。そんなに中国を批判できるほど、日本はまともな国だろうか?
たとえば中国政府による報道規制。少数民族過激派による破壊行為を取材する日本人ジャーナリストが、中国公安当局に拘束され暴力をうけた事件。
これはたしかに非難されるべきだが、留置所を「代用監獄」として、法的根拠なく、まだ有罪の確定していない容疑者の身柄を、延々と拘束する日本の警察も、それに劣らず恐ろしいと思うのだが...。
そしてこういった実態をまったく報道しない日本のマスメディアの”自主規制”の方が、中国当局の”目に見える規制”よりもよっぽど恐ろしい。
日本の報道機関は”自主規制”や、閉鎖的な「記者クラブ」システムなどによる事実上の言論統制をしているのに、その事実を棚に上げて、中国の報道規制を批判する権利などあるのか。
そして中国観客の応援マナーについて、小倉智昭が「中国が今後もっと豊かになれば、他国選手にも声援を送る余裕や礼儀が出てくるのだろう」と、完全に上から目線で発言していた。
確かに中国の若者の愛国心は、日本人から見れば過剰かもしれない。しかし、それならなぜ、イラク侵攻の正当性を疑いもしない米国の若者の愛国心を批判しないのか?また、サッカーワールドカップでの日本人サポーターの応援マナーの問題は忘れてしまったのか?
小倉智昭の公式ブログが、日本人選手のメダルの話題でほぼ埋め尽くされているのを読むと、彼のコメントに全く説得力がないことがわかる。
そして開幕式については、大きな足跡の花火の一部が実はCGだった、少女の歌が口パクだった、少数民族衣装を着て登場した子供の大部分が実は漢族だったなど、日本のマスメディアは嬉々として、あらさがしをしている。
ところで、当然のことだが、開幕式というのは、真実を伝えるための報道ではなく、演出があることを前提としたショーである。
たとえば日本の劇団が中国を舞台にした演劇を上演するときは、必ず中国人俳優が演じなければならないのか。カンフー映画の俳優は、ワイヤーなしで10メートル飛ばなければならないのか。
単なるショーであり、エンターテインメントである開幕式が、すべて本物でなければいけないと、一体誰が決めたのか。
単なるショーである開幕式に、CGや口パク、漢族が少数民族を「演じる」ことがあってはいけないというのは、日本メディアが勝手に作った倫理基準でしかない。
そんなにわか仕立ての基準を一方的に他国に押しつけ、開幕式という単なるショーに文句をつけること自体、日本メディアの勘違いも甚だしい。
日本の報道機関が、真実を伝えるべき報道において、一度も「やらせ」をやったことがないとでも言うのだろうか。
結局、日本の報道は中国を批判できるほど、自由だとはとても言えないのだ。民法にはスポンサーの圧力があり、国営放送には政治家の圧力がある。
NHKの従軍慰安婦問題を主題とする番組が、2人の政治家の圧力で大幅に内容を改変させられた問題を、大部分の国民が問題とさえ感じない日本に、中国を批判する資格はない。
以上、日本国内での一連の北京オリンピックがらみの中国批判を見ていると、日本の方こそ、実に心が狭く、自国の欠点に無関心な、レベルの低い国だと思えてくる。一人の愛国者として、実に恥ずかしい。