光市母子殺害事件報道に見る日本の後進性

もう一つ、インターネット放送の「ビデオニュース・ドットコム」で、光市母子殺害事件にからめて死刑についての放送回を観た。こちらは無料放送回なので、「愛と苦悩の日記」の読者はぜひご覧いただきたい。
「なぜ日本人は死刑が好きなのか」
この放送を見て、まさに目からウロコだった。

光市母子殺害事件は犯人の死刑が確定している。被害者の家族である本村洋氏の言動がメディアで大々的に取り上げられ、世論を煽動したことが、死刑の確定に貢献したことは間違いない。
ところが、犯人が幼いころから母親とともに、父親の凄惨な家庭内暴力を受けつづけ、精神鑑定にあるように精神的な発達が四、五歳で止まっているという事実がある。
『報道ステーション』などのマスメディアは、この精神鑑定が、差し戻し審の段階になってから、安田好弘を主任弁護人とする弁護団が、死刑を避けるためにでっち上げた荒唐無稽のつくり話であるかのように報道しつづけた。
おそらく「愛と苦悩の日記」の読者のほとんどもそう思い込んでいるだろう。

しかし現実は、この精神鑑定は複数の医師によって妥当性を確認されており、十分に「客観的」と言えるものである。にもかかわらず、安田弁護団がつくまでの裁判の過程で、なぜか一貫して無視されていた。
安田弁護団は、その無視されつづけていた材料を、正しく裁判の俎上に戻しただけなのに、現大阪府知事の橋本元弁護士が代表するように、世論は完全に感情的な反発しかしなかった。
さらに、犯人の母親は、夫の家庭内暴力に耐え切れず、ついに犯人が十二歳のときに首吊り自殺をしている。その第一発見者は、十二歳当時の犯人だった。
また犯人の身体には、父親から受け続けた暴力の外傷が、犯行時の十八歳一か月当時もまだ残っていることが医師の診断で確認されている。
マスメディアが本村洋氏の被害者として訴えを大々的に取り上げる一方で、犯人に関するこうした客観的な事実は一切報道されなかった。
その結果、見事にほとんどの日本人が、この精神年齢、四、五歳の犯人に死刑判決が下されなければ気がすまないような、大きな社会的復讐感情の渦をまきおこすことに成功したのだ。

精神発達が四、五歳で止まっている人間が、例の「ドラえもん」の件や「性交によって生き返る」などの犯人の証言をするのは、むしろ自然である。
しかし日本のあらゆるメディアは、それを罪を逃れるための荒唐無稽な猿芝居として、逆に容赦なく非難を浴びせた。そしてそれを補完したのが、本村氏を悲劇の主役として祭り上げる報道方針だった。
この事件を通じて言えることは、犯人の死刑を確定させることで、日本全体が感情的な満足を得た、というだけのことだった。
宮台真司は、被害者の家族は、犯人に対する刑罰を通じて、感情的な回復を得る権利があるが、当事者でない人間が、感情的な回復を得ることは許されず、感情の問題と法律の問題を厳密に分けるべきであると訴えている。
その分離ができて初めて成熟した市民社会と言えるのであり、その意味で、この光市母子殺害事件に見られるように、被害者への同情から、社会全体が感情的に噴き上がる日本社会は、未成熟な市民社会だと断じている。
だから、OECD諸国の中で、唯一、日本は死刑を執行し続けている。そしてこのまま裁判員制度が始まれば、この光市母子殺害事件と同じ「感情的な噴き上がり」が、裁判の公正性を歪める危険性が高いと、警鐘を鳴らしている。
少なくとも、マスメディアが犯人側についての上述のような客観的事実を、客観的事実として全く報道せず、それどころか、極刑を逃れるための見え透いた猿芝居としてしか報道しなかったその偏向ぶりは、異常だ。
結局、日本人の民度は、その程度のものでしかないということである。
経済的には先進国でも、日本人の民度は発展途上国並みであり、だからこそ先進諸国の中で、死刑が執行されている唯一の国なのだ。