大沢真幸『不可能性の時代』を読んだ


昨日、今日の二日間は、大沢 真幸『不可能性の時代』(岩波新書 新赤版)を読んだ。議論の射程の長さに対して、新書という分量が明らかに不足していて、消化不良の感は否めない。
あまりに単純に図式化しすぎているという非難を避けるには、たぶん4倍くらいのページ数で精緻に理論を展開する必要があるだろう。
理論展開のパターンは分かりやすい。両立不可能な二項対立が、実はその背後に第三項を要求するが、その第三項は、二項対立を成立させている「真の第三項」を隠ぺいするために要求されているに過ぎない、というパターンだ。
「真の第三項」は二項対立から直接導くことができず、自らを隠ぺいするために顕在化させるという意味で、「不可能性」と名づけられているが、ポストモダン思想にとってはおなじみの理論展開と言ってよい。
こういう理論を、単なるパッチワークだとか、わけがわからんとか、実際の生活に何の役にも立たないとか、そうした批判そのものが、大沢氏が退けている「第三者の審級」を呼びもどしているに過ぎない。
ただ、大沢氏は時間をかけて、自らの理論体系を構築しようとしているが、このグランド・セオリー指向には、やや違和感を抱く。現代を「不可能性の時代」と名づける行為そのものが、自ら「第三者の審級」たろうとする行為ではないのか。
もちろん大沢氏の理論は自己言及的である点で、その辺の、特定の観点や価値観を臆面もなく一つの教義として主張するような、下らない新書と同列に論じることはできない。
大沢氏の理論は、自らの理論自身を「ネタ」として論じることができる点で、特定の観点や価値観を「ベタ」にお勧めしているような啓蒙書とは、まったく異なる水準にある。