再び「自殺の制度化」を考える

連日自殺の話題で申し訳ない。以前にも書いたが、公式の統計上把握されているだけで、年間3万人も自殺で死んでいるのだから、政府は交通事故以上に対策のための予算を計上するか、いっそのこと自殺を制度化する方向へ踏み出すか、どちらかを実行すべきだろう。
カート・ヴォネガットの「自殺パーラー」は、もし自殺が制度化されたら、という一種の悪い冗談だが、自殺する直前の5月24日、最期のテレビ出演の明るい川田亜子さんの姿を見ても分かるように、本気で自殺を考えている人間が、周囲にはっきりと助けを求めるなどということはない。
自殺志願者を周囲が救おうとすれば、まず誰が自殺志願者かを特定する必要がある。しかし本気で自殺を考えている人は、そのことを口に出さない。なので、自殺を未然に防ぐ対策には、根本的に限界がある。
かといって、誰でも自殺する可能性があるという前提に立って、社会全体が他人に対するさまざまな要求水準を下げるのも、非現実的だ。実際にはそれと正反対のことが起こっている。
たとえば、先日ここに書いたような「モンスター・カスタマ(怪物のように要求過多な顧客)」や、今日の日経朝刊にあったような、医者に対する「モンスター・ペイシェント(患者)」の存在がある。
そういう社会で、身体的に健康で、かつ、さまざまな理由から生活保護やホームレスのような、経済的にぎりぎりの生活に適応できない人は、この社会で行き続けられないと自分で認めてしまえば、つまり、自分の「負け」を認めてしまえば、自殺しか手段が残されていない。
その意味で自殺は決して特殊なことではなく、宗教的な観点から自殺を「罪だ」と断罪することで自殺が減るなどということも決して期待できない。
「この命は自分のものだけではない。人は生きているのではなく、生かされているのだ」などという考え方も、単なる一つの考え方、イデオロギーであって、自殺志願者に対して意味のある説得には全くならない。
こういった「精神論」で自殺を減らせるほど、今の社会は単純素朴ではない。僕らが生きているのは、人の命さえ相対化されてしまう社会なのだ。
そう考えると、自殺を制度化するという発想も、決して完全な絵空事ではない。
例えば、以前にも書いたが、自殺志願者を、自殺をやめさせるというお題目ではなく、自殺するまでの日々を穏やかに過ごしてもらうというお題目で収容するような施設を、地方の景色のいい場所に国の予算で建設してはどうか。
そうすれば、結果として一定数の人たちに、自殺を思いとどまらせることが可能だと思うのだが。
「自殺の制度化」という言い方が悪ければ、「人生を降りることの制度化」と言い換えてもいい。数か月、あるいは数年間、いったん「人生を降りてもいいですよ」という施設を国の予算で運営すれば、確実に自殺者を減らせると思う。
逆に言えば、それくらい逆説的なことを実行する覚悟がこの社会になければ、年間3万人という水準の自殺者を減らすことなど、絶対にできないと思うのだが。