劉若英の素晴らしいエッセー「一個人的KTV」


最近、台湾の女性歌手、劉若英(刘若英/レネ・リウ)の「一輩子的孤単」という歌がとても気に入っている。ちなみに劉若英は僕と同じ年。誕生日もとても近い。いちばん好きなスポーツが水泳、いちばん好きな女優がジュリエット・ビノシュというところも、他人のような気がしない。
日本版ウィキペディア:劉若英
刘若英:公式サイト
去年エイベックスからデビューした中国人女性歌手のalanさんが、日本デビュー前、中国で発売したカバーアルバム『声声酔如蘭』に収録されていることから「一輩子的孤単」という曲を知った。
まだ十代のalanさんがこの歌詞の意味をどこまで理解して歌っていたかは分からないが、その自嘲的な歌詞が何とも言えず良いのだ。
「一輩子的孤単」のiTunesからの購入はこちら→Rene Liu - Love and the City - The Loneliness of a Lifetime

少しだけ日本語に試訳してみる。「ずっと孤独かもしれない/一生こんなふうに孤独かもしれない/空が青くなるほど、見上げるのが恐くなる/映画がハッピーエンドなほど、悲しくなってくる/時間があればあるほど、不安になってくる/だっていつも孤独だから/孤独な日々を過ごしているから」
日本人にとって劉若英は、Kiroroの『未来へ』『長い間』などを北京語で歌って中華圏でヒットさせたことのつながりの方が強い。
しかし、2002年の彼女自身が主演の音楽映画『Love and the City』に収録されているこの「一輩子的孤単」という曲は、どうやら彼女が売り出している個性の重要な一面らしい。
というのは、2001年に彼女は『一個人的KTV(ひとりのカラオケ)』というエッセー集を出版していて、収録エッセーがまさに「一輩子的孤単」と同じ雰囲気をかもしだしているからだ。
この『一個人的KTV』というエッセー集はこちらでオンラインで読むことができる(簡体字)。
彼女のブログ「Rene’s Notes 奶茶笔记本(ミルクティー・ノート)」(繁体字)の文面からして、『一個人的KTV』も本人が書いているのだと思いたい。
このエッセー集の表題にもなっているエッセーを日本語に試訳する。よく一人でカラオケに行く僕にとって他人事とは思えない、やはり自嘲的な文章が魅力的だ。

一个人的KTV
一人のカラオケ
躺在床上也不知道多久了,但就是睡不着,终于决定不再倔强,起来喝杯茉莉花茶。
ベッドの上でどれくらい経ったか、それでも眠れなくて、とうとうもう意地を張らないことに決めて、起き上がってジャスミンティーを飲む。
半夜收到公司同事的一封传真,恭喜我快出片了,我的思绪掉到了过去两年中无数一个人的日子。
真夜中、会社の同僚から一枚のファックスが届き、おめでとう、もうすぐCDが出るねと。私はこの二年間一人で過ごした無数の日々にふと思いあたった。
其中有这么一天,我中午起床,突然发现房子里有另一个人说话的声音,我吓了一跳!这屋子里不是一直都是我自己一个人吗?怎么会有人突然问我早餐该吃些什么呢?仔细再听,原来那是我自己。还是我自己。我竟然不知不觉地开始自己跟自己说话了。
そのうちのある日、正午に起きると、突然部屋の中に別の人が話す声がして、飛び起きた!この部屋にはずっと私ひとりじゃなかった?どうして誰かが突然早く朝食を食べなさいとか何とか聞いてくるの?よく聴いてみると、それは自分の声だった。やっぱり自分の声だ。何と知らぬ間に自分で自分と話し始めていたのだ。
我不是一个没有朋友的人,可是好一阵子别人有空找我的时候,或者我在工作,或者几个月根本不在台湾。而我有空的时候,我又怕大家都忙,不想去打扰。就这样老凑不再一块儿,久而久之也就习惯一个人了,甚至喜欢自己一个人了。
私は友達がいない人間ではないけれど、でもずっと長いこと誰かがひまで私を誘うと、私は仕事だったり、そもそも数か月台湾にいなかったり。逆に私がひまだと、みんな忙しいんじゃないかと、邪魔をしたくなかったり。こうしていつももう一度一緒に過ごす機会を逃して、そうするうちに一人でいることが習慣になり、自分一人でいるのが好きにさえなってしまった。
看电影一个人,吃饭一个人,逛街一个人,挂急诊一个人,甚至一个人唱KTV。
映画を見るのも一人、ご飯を食べるのも一人、街をぶらつくのも一人、救急車を呼ぶのも一人、カラオケを歌うのさえ一人。
一个下午,算算自己已经四天没出门,突然很想唱歌。场景是东区热闹的KTV店。
ある日の午後、もうかれこれ四日も一人で家から出ていなくて、突然歌を歌いたくなった。東区のにぎやかなカラオケ店での場面。
“小姐,有订位吗?”
「ご予約は?」
“小姐,有几位呢?”
「何名様ですか?」
“小姐你需要大包厢还是小包厢呢?”
「大部屋と小部屋どちらにしますか」
“………”
「………」
“我,一个人。我需要小包厢。”
「私、一人です。小部屋でお願いします」
我狠狠地唱了三个小时,像办了一场演唱会。唱自己的歌,想着这几年来我的脸的改变。
三時間歌いまくって、まるでコンサートを一回こなしたようだった。自分の歌を歌いながら、ここ数年の自分の顔の変化を思った。
唱自己的歌,让那些日子一幕幕重现眼前。唱别人的歌,听听别人的心情,想象别人过的日子。最后嗓子终于沙哑了,泪水也终于布满了我的脸颊。可惜,只可惜这不是发生在布景壮阔的舞台上,也没有摆着精准的摄影机记录我发自内心的呐喊,我不过是一个人在KTV里扮演平凡女子的悲喜剧。
自分の歌を歌うと、あの頃の場面が一つひとつ目の前に再び現れる。人の歌を歌うと、人の心に耳を傾け、人の過ごした日々が想像される。最後にはついに声が枯れ、ついに涙も頬いっぱいに流れ落ちた。惜しいのは、ただ惜しいのはこれが壮大なセットの組まれた舞台で起こったのでもなく、カメラが正確に配置されて私が心の中から発した喚声を記録していたのでもなく、カラオケ店で平凡な女の悲喜劇をひとり演じていたということだ。
埋了单,我以电影散场的心情走出KTV,天色已经是灰黑的了。下班时拥挤的东区,里头有一个这样的我。
料金を支払って、映画が終演したときのような気持ちでカラオケ店を出ると、空はもう薄暗くなっていた。退勤の時間帯で混雑した東区、そのただ中にこんな私が一人。
有歌唱还是好的,即使是自己唱给自己听。
やっぱり歌はいい、たとえ自分で歌って自分に聴かせるにしても。
1998冬天
1998年、冬。

なんて素晴らしいエッセーだろう。たとえば「唱自己的歌,想着这几年来我的脸的改变」。この一文、残酷な時間の流れをさらりと書いていて悲しい。
それから、僕は二十歳の頃、救いようのない絶望と孤独の中にあって、ただひとり部屋の中で歌うことだけが生きることそのものだった。そして今でも僕にとって歌うことは、普通の人とは違う大切な意味を持っている。
「有歌唱还是好的,即使是自己唱给自己听」。歌う歌があるということはやはり素晴らしいことだ。たとえそれが自分に歌って聞かせることであっても。