alan中国語ブログ試訳:2007/12/11

久しぶりに中国語の勉強のためにalanさんの中国語ブログを日本語訳する。alanさんの2ndシングル「ひとつ」の発売はいよいよ2008/03/05。

彼女の公式サイトの背景が、ようやく1stシングル「明日への讃歌」の中性的な写真から、2ndシングル「ひとつ」の一目で女性とわかる写真に変わったので良かった。
今日翻訳したのはalanさんの子供の頃の、かなりおてんばな思い出。中国語ブログには当時のalanさんのかわいらしい写真が掲載されている。alanファンなら必見。
2007-12-11 12:56:30
母さんは言った。「覚えておきなさい。あなたがその人のために泣く価値がある人は世界に一人としていない。唯一その価値があるのは永遠にあなたを泣かせないような人よ….!」
北京に雪が降ったんですって?!!帰って雪景色が見たい!!こちらは雪はまだです~~~でも東京の冬は確かに北京よりずっと暖かいです。湿気も多いし。でもたとえそうでも、外に出るとやっぱり寒くて、寒いのは嫌で、熱いのも嫌だし、どうしたらいいの。。
康定の冬は特別寒くて、寒風が身にしみて、ひゅーひゅーと鳴っていました。耳が凍って落ちそうな感じでした。お母さんは冬になるといつも私に「植毛」?したようなズボンを穿かせてくれて、とても実用的でしたが、肌がチクチクしました。小さいころ康定の武装部に住んでいたころは、冬は特に中庭の凍結した水道管のあたりで遊ぶのが好きでした、特にあのきらきら透き通ったつららが好きでした、つららを食べるんです、水遊びが好きだった。小さな草花をグラスに逆さに入れっぱなしにしてベランダの上に置いておくと、次の日には氷中花になって、とてもきれいでした!!
学校に通うときは、カイロを持って電気がないので、教室の中ではストーブをたいて、小石を拾ってその中に放り投げて焼き、焼けるように熱くなるのを待ってから紙や布に包みました。とても役立ちました。家ではときどき唐辛子面(+化学調味料+塩+)と少し”干し牛肉”(蔵民族が自分で作った風で乾燥させたり積み上げた雪の中で自然に乾燥させたヤクの肉)を持って学校に行って同級生何人かと”平夥”をしました(四川の方言でみんな持ってきたものを持ち寄って一緒に食べることです)。
両親は当時私に”小覇王”の学習机を買ってくれて、その当時はとても流行の商品でした。両親が仕事に出ているとき私と兄は家で宿題をしていて、両親が出かけるのを待って兄とテレビゲームを始めました。当時好きだったのはメイプルストーリー、スーパーマリオ(超级玛丽)、影の伝説、それからカンフー、タンク、コントラ、ビリヤード、カーレース、テトリス(一日の大半を1ゲームに費やしました)、たくさんありすぎて覚えていません(あのころのゲームのし過ぎで眼が近視になったに違いありません)、当然今もPIPI(※訳者注:ゲーム機の名前?)を持っています。私と兄は順番に遊んで、一人は遊んで一人はベランダで見張りをして、両親がまだ帰ってこないか見ていました(それに隠れて見張らなければいけませんでした、というのは両親は私たちにこの手があるのを知っていたので)、目標を発見するとすぐにテレビを消して、カバーをかけて。。元の場所に戻して、私たちは何事もなかったように本を読んでいた振りをしました。。でも私のお母さんは頭が良くて、テレビの背面を手でなでて発熱していると何があったのか分かってしまうんです。それで叱られました。。でもそれから私たちはまた対策をして、テレビの背面に湿ったタオルを載せて、扇風機で風を当てました。。それからは二度とバレませんでした。
家族は花を育てたり、魚や鳥を飼ったりするのが好きで、アヒルや、カメを飼っていたこともあります。当然私は小さいころからずっと犬を飼っていて、いちばん多いときで同時に3匹も飼っていました。まるで動物園みたい。。飼っていたインコや、ハトを、私は何事もなく放してしまって、いつも放してしまうので、両親は私に何があったのかと聞くので、私は当然自分で飛んで行ったかもしれないでしょと言っていました。あるとき私が一人で家にいて、かごの中のインコをちょっと放そうとしたら、オウムに一度噛まれたことがあってそれ以来ずっと私はオウムが恐くなり、それで赤いくちばしのその大きなオウムにはそれ以来触っていません!私は小鳥たちはかごの中にずっといるので飛べないと思っていたんです。結果部屋の中をめちゃくちゃにされて。。どうにも後始末をしようがなくなりました!花瓶は倒れるわ、小鳥は金魚鉢の中に入るわで、私は小鳥も金魚鉢から救い出さないといけないし、鳥は飛ぶし、魚は泳ぐし、子犬は見てるし、カメは知らん顔だし、大混乱になりました!!両親が帰宅してその場でびっくりして、結果またお母さんに叱られました。。
小さなころは叩かれないわけにはいかなくて、(私のお父さんは私を叩いたことはありません、いちばん酷かったのは両手で私を押さえつけたことです。私は今でも覚えています。)お父さんは毎日軍服を着ていて、特に謹厳で、一度風邪で医者に針を打ちに行ったときは、私をおんぶすると、私が興奮して背中の上で暴れました。お父さんは実際我慢できなくなりました。それで私のお尻を両手で押さえました。私はすぐに大人しくなりました。。(※「すぐに」を「立马」と言うのは方言らしい)お母さんも私を叩いて私を叱り、でもほぼ三日たつと忘れてしまうので、使える”手段”はみんな使って、当然いちばん多いのがあの”家罰棒”で(破れた細長いものです)(※訳者注:どんな棒なのかよく分からない)、でも私にはいつも奥の手があって、形勢不利と見ると急いで寝室に突入し分厚い服を着て、布団の中にもぐりこみ、バカな兄さんはいつも私より動作がのろくて、両親がやって来るころにはもう叩かれていて、私は分厚い布団で耐えて叩かれてもそれほど痛くなくて、当然毎回そんなに上手くいくわけではなく、逃げられなかったときには、布団の中から引きずり出されたときもありました(決して皆さんに逃げ方を教えているわけではありませんよ~~!)
今思い出すとチビだったころのことはとても面白く感じます。。皆さんの子供のころも私と同じかもしれませんね、いつも間抜けなことばかりして。(※訳者注:「也是总干写蠢事」は「也是总干些蠢事」が正しい)
今日はお休みです。午後は日本語レッスン、夜はセカンドシングルの弦楽隊の録音を見に行き、学んで理解しなさいということです。明日は大阪にテレビ番組の収録に行きます。。88(※訳者注:「バイバイ」の意味)