いまさら「バカの壁」の「バカ」について考える


2003年に養老孟司の『バカの壁』という本がベストセラーになった。伊東乾というユニークな経歴を持つ東京大学准教授が、日経ビジネスオンラインの連載コラム「常識の源流探訪」で「バカの壁」の意味をあらためて解説している。
要約すると、同じことを言われたとき、人それぞれ受けとり方が違いすぎて、その言われたことについてお互いの意思疎通さえ成立しない状況が、「バカの壁」がある状況ということだ。
この僕の解釈が正しいとして、養老孟司の「バカの壁」という言葉が正しく理解されづらく、おそらくベストセラーになった当時もほとんど正しく理解されずに終わったのは、「バカ」という言葉の含みが世代によって大きく違いからではないか。
養老孟司に近い世代では「野球バカ」や「法学バカ」のように、特定分野のことは熟知しているが、それ以外のことに疎い人間のことを「バカ」と呼ぶことがある。「バカ」というのは頭が悪いということではないのだ。特定分野で人なみはずれた素晴らしい才能をもっていることが前提になっている。
しかし若い世代は「バカ」という言葉を、ほとんどこの意味で使わない。単に頭が悪いという意味でしか使わないのだ。
以上のようなこと自体が「バカ」という言葉をめぐる「バカの壁」的状況になっているが、結局、養老孟司の日本社会に対する批判は、日本社会を変えることにまったく成功していない。
日本社会はかえって同調圧力が強まり、空気を読む力を重視する方向へ進んでいる。「バカの壁」を自覚するには、「バカの壁」を俯瞰する力、自分とはまったく違う考え方があることを理解する「批判」の力がまず必要だ。
しかし空気を読む力が優先されると、人々は「バカの壁」の内部の均質な空間をいかに維持するか、いかに場を保つかに腐心する。製紙業界の業界ぐるみの古紙配合率偽装もその一つの現れだろう。
なぜ日本は「個性重視」と一時期あれだけうるさく言っておきながら、かえって「みんな仲良く」の方向へ、「空気を読め」の方向へ突き進んでしまったのか。