『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』

『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』を映画の日で入場料が1,000円の公開初日、JR京葉線海浜幕張駅前のシネコンプレックス10:20分の回、意外にもそれほど混雑のない劇場でゆったり観ることができた。
新劇場版は全四部作で、今回公開された『:序』はその最初の部分、1995年テレビ東京系で放送されたテレビシリーズでいう「ヤシマ作戦」の成功をクライマックスとし、10年前の劇場版では「最後の使徒」として登場した渚カヲルが、末尾に思わせぶりにちらりと登場して終わる。
エンドロールの後、テレビシリーズでおなじみのあの三石琴乃のナレーションによる次回予告が流れ、第二部の『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』では「ヱヴァ6号機」までが登場するらしいことがわかる。次回の『:破』では渚カヲルが物語の鍵を握っているらしい。
繰り返しになるが、今回の『:序』は物語としてはテレビシリーズの「ヤシマ作戦」までを反復しているだけなので、見どころは再構築された映像となる。
随所に活用されたコンピュータグラフィックス技術は、ディズニーアニメのように濫用されることなく、伝統的なセル画による動画表現ときわめてバランスよく使いわけられている。
CGが活用されているのは、大別して二つの目的に抑制されている。幾何学的な構築物の移動シーンと、微妙な透過色を含む繊細で連続的な色彩表現の二つだ。
幾何学的な構築物の移動シーンは、セル画で表現されるとどうしてもカクカクとぎこちない動きになるが、今回の劇場版ではほとんどコンピュータ処理されたなめらかな表現で、とくに「ビルが生えてくる」シーンや、流れ去る背景に利用されているシーンでは異様なリアルさになっている。
「ヤシマ作戦」で殲滅される使徒は、そもそも形状が幾何学的だが、コンピュータの計算によって、おそらく庵野総監督が本当は表現したかったであろう、自由自在かつ瞬時に形状を変える外形がCGの助けを借りて完璧に表現されている。
もう一つの色彩表現だが、セル画では最終的にフイルムに撮影するときの画質を考慮すると、重ねることができる色数が制限されると思われる。しかしCG処理では、ほぼ無限の中間色を透過色として、変質させずにいくらでも重ねることができるようなので、画面に奥行きが出ている。
この色彩表現は暗闇の戦闘描写において、セル画では決して観ることのできない空気感を伝えることに成功している。
しかし、人物描写やエヴァと使徒の接近戦闘シーンは、CGに頼ることなく、ディズニーの不自然になめらかな動画には決して期待できない、日本アニメーションの独壇場であるメリハリの効いた「運動」を完全に表現している。
テレビシリーズとは異なる演出意図で描き変えられているシーンもたくさんあり、ここにはおそらく前回の劇場版から10年を経て、映像作家として成熟した庵野総監督の変化が確実に投影されてる。
そして何より不思議だったのは、映像から伝わるものが明るくポジティブだったということ。
テレビシリーズでは主人公の少年、碇シンジのエヴァに搭乗して闘うことに対する逃避的な態度や、ネルフからの遁走、内向的で鬱屈した精神性が延々と描かれたので、シリーズ前半でさえもかなり閉塞感がただよっていた。
しかし今回の『:序』では、その部分が大幅にカットされており、リズミカルな編集で物語が高速に展開するせいか、人類全体の救済を担う碇シンジと綾波レイ、それを支える上官の葛城ミサトの、やや恥ずかしいくらいのポジティブなエネルギーが伝わってくる。
映画のクライマックス、「ヤシマ作戦」でエヴァ初号機を盾になって守った零号機から、碇シンジが綾波レイを救出する場面の、あの有名な台詞、「笑えばいいと思うよ」のところでは、思わず涙を流してしまった。
10年という時間が庵野総監督を変えたのだろうか。今回の新劇場版『:序』について、僕は観終えた後、多少うつ状態に退行するのはやむをえない覚悟だったのだが、まったく意外にも、劇場を出た後は胸がいっぱいで、エヴァンゲリオンとはこれほど希望に満ちた作品だっただろうか?と自問してしまった。
現実の生活に閉塞感を抱いている人、つまり、かつてのエヴァンゲリオンの典型的な視聴者は、今回の新劇場版から「現実ってそんなに悪くない」という予想外のメッセージをうけとるのではないかと思う。
ただ、このまま第二部の『:破』が同じトーンで進むはずがない。第二部がどれほど破滅的な展開になるか、今から楽しみだ。