ルーマン「機能と因果性」精読(5)

前回に引き続き、Niklas Luhmann, Soziologische Aufklaerung 1 – Aufsaetze zur Theorie sozialer Systeme, 7.Auflageの18ページから精読を進める。
「このような端緒から抽象化の技法と比較に技法が発見される。それらの技法は同一性、観念、類概念といった古い存在論的概念よりも柔軟で、同時に複合的である。たしかに存在論的に構想された観念論は、不確実性を通じて一般概念を獲得しなければならなかった。しかしそうした観念論は、他の可能性の排除の下に観念を絶対的存在の中に確保するために、観念の本質からあらゆる不確定性を排除しようとした。観念論は具体的な世界を―変化の規則の方へではなく―不変の性質の方へと抽象化した。そして観念に可変なものも組み込むことをせず、ただ不変なものだけを組み込んだ。したがって、たしかに一般化はあっても、それは分類の意義しかもたず、世界の変化のための戦略的概念としては役立たない。つまり、他の可能性の発見や、代替物による解決と補完的作用の文脈についての解明のための戦略的概念としては役立たないのだ。機能主義的分析にとって問題となるのは、本質において不変なものという形式で存在を確立することではなく、複合的なシステムの枠内での、可変なものの変化である。不変なものは単に変化の条件として機能するにすぎず、そのようなものとして、特定の機能に対する適応性という観点の下では、不変なものは変数なのである」
ここでは伝統的な存在論的観念論と機能主義的分析が対比されている。ヘーゲルの弁証法的観念論の評価は言及されていないが、古典的な存在論的観念論が静的であり、変化や運動を排除しているというのは、ベルクソンを引き合いにだすまでもなく、よくある論の展開だ。
「存在論的に普遍なものをこのようにすべて解消することによって、徹底的な熟慮の末、機能主義的方法は無限後退という反論にさらされる。つまり、いかなる関係の観点も、それ自身、機能的に分析できるのだとすれば、その研究はいったいどこに限界や、最終的な準拠点を見出すのか、という反論だ」
ルーマンは伝統的存在論の立場から予想される、機能主義的分析への反論を先取りしている。機能主義的分析が、いってみればつねに他の可能性へと送り返すことで成り立っているのだとすれば、機能主義的分析そのものも、機能主義的分析ならざるものへと送り返されるのではないか、という反論である。
これも絶対主義的立場から、相対主義的立場への、よくある反論のパターンだと言える。
「しかしながら、このような反論は、依然として存在論的な思考前提の枠組みの中で動いている思考の文脈においてしか当てはまらない。無限後退というのは、何物かは存在し、かつ、存在しないことはないのだ、ということの根拠に同意することへの反論だ。無限は何物も排除しないのだから、そのような根拠は無限へと解消されてはならない。機能主義的方法の枠内では、そのような根拠づけはいかなる関係づけの観点からも期待されない。逆に、機能主義的方法は、何物かは存在し、かつ、存在しないこともありうるという主張(Feststellung)、何物かは代替されうるという主張を根拠づけるべきなのだ。機能的等価物を確保するには、関係づけの観点が相対的に不変でありさえすれば十分であり、その関係づけの観点は、他の関係づけの観点によって解消される可能性があるものなのだ」
機能主義的方法は、相対的な不変性だけを確保できていればよいのであって、存在論的な絶対的不変性を求めるや否や、無限後退という反論がうまれるのは当然である。
(つづく)