壁のスイッチに関する合理的な判断

明日、何かうれしいことが起こるとして、それが今までの人生でいちばんうれしかったことよりもうれしい確率をHとしよう。明日、何かイヤなことが起こるとして、それが今までの人生でいちばんイヤだったことよりもイヤな確率をSとしよう(ちなみにSはShit!の頭文字)。
四捨五入すると40歳であるこの年齢を前提とした場合、H<Sとなることはほぼ議論の余地がない。僕がまだ十代であれば、H>Sだと自信をもって言うこともできただろうが、四捨五入して40歳という年齢は、自分が死ぬまでにどれくらいのことしか出来そうにないか、ほぼ予想がつく年齢である。
例えば僕は今からプロのピアニストになることはできない。フランス現代思想の研究者として准教授の座につくこともできない。そうなる前にホームレスになるのがオチだ。
H<Sとなることがほぼ議論の余地がないのであれば、いったい明日という日は何のために存在するのだろうか。前にも書いたかもしれないが、もし自分の部屋の壁にスイッチがあって、それを切ると何の苦痛もなく自分の人生が終わるのだとすれば、僕は迷わずそのスイッチを切るだろう。残念なことに世の中にそんな便利なスイッチは存在しないが。
このように書くと、頭がからっぽな人は、すぐに僕のことを慢性のうつ病あつかいしたくなるだろうが、残念ながら僕は絶望しているわけでもないし、何事にもやる気が出ないわけでもない。毎日をそこそこゆかいに暮らしている。
にもかかわらず、そういうスイッチがあれば迷わず切るのだ。H<Sとなることに議論の余地がないのだから、そういうスイッチがあれば切る、というのは極めて合理的な行動だ。つまり、僕は単に合理的なだけであって、うつ病でもないし、絶望しているわけでもないのである。
このような僕の考え方を、おかしいと思う人たちは、あまりに能天気すぎて、人間だけに与えられた知性を自ら放棄した人たちである。

壁のスイッチに関する合理的な判断」への0件のフィードバック

  1. ニッポンじゃあ二番目だ。

    欲望のために生きるのさ。

    壁のスイッチに関する合理的な判断(愛と苦悩の日記さん) H<Sとなることに議論の余地がないというのがなぜだかよくわからない。それは多分、僕が今までの人生で一番うれしかったことや一番イヤだったことを特定することができないからだろうと思う。しかし、仮にそれを特…