「顧客第一」が産み出すおバカな社会

いまサービス業の社内情報システム部門で働いているせいか、顧客満足といえばできるかぎり顧客の要望を実現すること、という考え方が当たり前のように社内にまかりとおっている。しかし顧客の言いなりになるだけでなく、顧客を啓蒙することもサービス業の使命である。
わかりやすいのは環境問題だ。小売業がレジ袋を廃止すれば顧客の利便性は失われる。顧客の言いなりになることが営利企業の至上命題なら、レジ袋を廃止するのはナンセンスだ。しかし、現にレジ袋を廃止する企業が存在するのは、顧客を啓蒙するのも企業の使命だという暗黙の了解があるからだ。
家電製品やパソコン、携帯電話も、利用者のわがままをくみとって、できるだけ使いやすくというのが、一見、無条件に正しいことのようだが、実際には30年前の家電と比べると現在の家電の操作ははるかに複雑で高機能になっている。だんだん使いやすくなっているどころか、使いづらくなっている。
しかしこれは、より多くの人々が高性能な製品を使えるようになるように、家電メーカーが長い時間をかけて、製品を通して一般消費者を啓蒙していると言えないだろうか。
僕は情報システムの構築の仕事をしているわけだが、この業界では特に、顧客の言いなりになると、だいたいとんでもないシステムができあがる。だいたいはシステムを作る側よりも利用する側の方が、情報システムについての知識が不足しているためだ。
したがってシステム構築にたずさわる人たちは、自分たちが利用者の要望をくむだけでなく、利用者を啓蒙する使命もおびていることを忘れてはいけない。IBMクラスのシステム構築業者になれば、コンサルティングサービスを通じて顧客を啓蒙するということを自覚的におこなえるが、レベルの低いシステム構築業者は「安くていいものを」という顧客の言いなりになってしまい、「安くて悪いもの」を結果的に作ってしまう。
啓蒙されることを嫌がる自己中心的な顧客は、結局は良いサービスを受けることができないし、良い製品を使いこなすようになることができない。良い情報システムを構築したいなら、企業の経営者は顧客としての自社の要望が無条件に正しいなどと思ってはいけない。システム構築業者から学ぼうとする姿勢がなくてはならない。
人々を啓蒙するのは、けっして学校だけの役割ではない。一般消費者として僕らが受けるサービスや、購入する製品の一つひとつが、僕らにとっての「教師」になりうるのだ。ただし、そこから何か新しいことを学ぼうとする人たちにとってだけは。
たとえば、いま亀戸駅前のマクドナルドでこの文書を入力している僕の目の前には、僕が入店する前からコンセントつきのカウンター席で携帯ゲーム機に延々と興じている少年3人がいる。
マクドナルドは顧客の要望に忠実なので、彼らを叱り飛ばすことはないけれども、何時間にもわたって座席を占有することが、ほめられたことではないということを、これら3人の少年は学び損ねている。
高度成長を成し遂げて以降の、日本の(そしてもしかすると世界中の資本主義国家の)すべての企業は、これまで顧客満足、顧客至上主義を言いつづけることで、顧客のわがままを際限なく増長させてきた。それによって自分たちが製品やサービスを通じて顧客を啓蒙できるという、大きな可能性を自らドブに捨てるようなことをしてきた。
日本経済新聞の社説の論調も、企業の顧客至上主義を当然のことのように考えている。最近読んだ社説では、環境問題に敏感な若者のライフスタイルが、あたかも自然と環境問題をより良い方向にみちびくようなことが書いてあった。
しかしこれは完全なウソっぱちだ。環境のことを考えるなら、顧客は今までは通用したわがままを、どうしてもひっこめる必要がある。そして企業はそういう風にわがままをひっこめさせるために、顧客を啓蒙する努力をしなければならない。顧客の増大するわがままをひたすら実現することが企業の社会的責任ではなく、顧客を啓蒙することこそが、特定の製品技術やサービスについて、一般消費者より高度な知識・ノウハウをもつ企業の社会的責任ではないだろうか。
企業の管理部門にいると、現場の人たちはやたらと「管理部門は現場に対するサービス部門だ」などということを言い、まるで現場のわがままを無際限に聞き入れることが管理部門の使命のように言う。しかし、企業の管理部門は、本当は現場を啓蒙することの方が本質的な役割なのだ。
顧客満足、顧客第一という言葉がはびこることで、社会から啓蒙の機会がどんどん失われている気がする。典型的なのは学校に文句ばかり言う親たちだ。
まさに啓蒙の場である学校までが、単なるサービス業のようにみなされ、親たちはレストランやクリーニング屋の仕事に文句をつけるのと同じように、学校の教師たちに文句をつける。最後の啓蒙のとりでである学校までが、顧客第一の美名のもとに、単に顧客のわがままをくみとる機関に堕落してしまう。
関西テレビの健康情報番組のねつ造問題もまったく同型だ。啓蒙ということには、個人的に知りたくないことを知らされる、ということも含まれているのに、テレビ局は顧客の知りたいことだけを知らせるようになり、最終的には顧客の知りたいような情報を作り出す。
知らなかったこと、知りたくないことを知るという啓蒙の機会を失ってしまったら、人々はどうやって前に進むのだろうか。