イリイチ『シャドウ・ワーク』

今さらながら、イリイチ『シャドウ・ワーク―生活のあり方を問う』(岩波現代文庫)を読んだ。正確には最寄の大型図書館で借りていたので、引越し前に返却する必要があり、途中までしか読めなかった。
以前この「愛と苦悩の日記」にも書いたように、僕は高校生から東京大学の前期課程にかけて、かなりフェミニズムに傾倒し、日本女性学会の記念大会や、女性解放論者の国際会議にも出席していた。
また、ファッションも意図的にフェミニンなものを身に着けていた。僕のことを知らない人は、おそらく同性愛者だと勘違いしただろう。
そういう学生時代の僕にとって、主婦の家事労働を資本主義社会の必然的帰結としての不払い労働、「影の仕事(シャドーワーク)」と呼んで批判の俎上にのせる本書は、フェミニストの間で賛否両論あったこともあり、必読書だったはずだ。
にもかかわらず、今ごろ初めて手にとっていることからも、学生時代の僕がいかに実存的な問題の泥沼にはまりこんでいて、現代哲学を冷静に研究する余裕などなかったかがわかる。
ただ、今回イリイチの『シャドーワーク』を読む前に、広松渉の一連のマルクス思想の解説書を読んでいたいことが偶然にも大変役立った。マルクスは資本家が労働者の労働が生み出す価値のうち、余剰価値の部分を「正当に」簒奪することが、資本主義を成り立たせている余剰価値の源泉であることを暴露した。
そしてイリイチは、マルクスが通りすがりにしかふれなかった、再生産のための「家事」という家庭内の不払い労働と、「主婦」という存在に、マルクスの資本主義批判の枠組みを発展させるかたちで切り込んだ。
しかし残念ながら『シャドーワーク』の率直な読後感は、あまりに理想主義的だ、というものだった。イリイチは「バナキュラーな」という形容詞をキーワードに、社会の資本主義化によって失われた、各地域固有の(=バナキュラーな)生活様式を回復させようとしているようだ。
男性労働力が資本家にとっての商品になったことで、家庭に残された女性は資本主義以前にはなかった「主婦」という位置づけになり、無償の家事労働を強いられるようになった。イリイチは男性労働力を再び共同体内の生産活動にとりもどし、女性も共同体内で男性と同等に労働する社会を夢見ているように思える。
また、子供の教育を国家による管理から共同体にとりもどし、さらに標準国語も大航海時代の発明品だとして相対化し、各共同体が、共同体内で通じる言語を、自ら子供たちに教育していく社会を夢見ているように思える。
現代文明をここまで根本的に相対化するイリイチの視点は、たしかに興味深いと言えるけれども、今さら個々の共同体特有の文化や生活様式の復興を主張するのは、行き過ぎた理想主義ではないか。
今僕らが生きている社会は、それを高度資本主義と呼ぼうが、グローバリゼーション呼ぼうが、不可逆な変化の過程であり、実現可能な改革の処方箋は、今の社会の中でできること、つまり体制内改革、構造をその内部から変えていくような方法論でしかありえないはずだ。
こう考える僕にとって、『シャドーワーク』という現代文明批判の書は、あまりに理想主義的すぎた。でも広松渉のマルクス解説を読んだ後に、偶然にも本書を手に取ったのは幸運だった。順番が逆であれば、イリイチが何を前提にして家事労働を論じているのかが理解できなかったに違いないからだ。