廣松渉『物象化論の構図』

廣松渉『物象化論の構図』を読んだ。物象化というマルクス哲学の基本的な着想を手がかりに、マルクスの思想を教条的な誤解から救い出そうとする論文集だ。やはり学生時代、マルクスを無視して西欧現代思想の研究をしようとしていたのは完全に間違いだった。

廣松渉は肺ガンを宣告された後、主著『存在と意味』の執筆を中断してまでも、余命をマルクス思想の復権のために尽くしたと言われる。ソ連崩壊によってマルクスの思想は教条的な解釈とともに葬り去られてしまったが、その状況に抗して廣松渉は最期までマルクスの思想の現代性を顕揚しようとした。
僕自身、マルクスと言えば、無産階級による世界革命によって資本主義を拝し、国家統制経済へと移行する道に理論的背景を与えた思想家で、社会の下部構造(経済)が上部構造(文化)を決定する下部構造決定論者だという具合に、完全に誤解していた。
現象学からハイデッガーの存在論、構造主義、脱構築という流れの中で、マルクスの思想は完全に乗り越えられてしまっているので、今さら勉強するにも値しない。『資本論』など概説書をかじって読んだつもりになっていれば十分、くらいに思っていた。
ところが最近になって宮台真司をきっかけに、廣松渉のマルクス論を続けて読むにつけ、僕のマルクス理解が救いようのないほど通俗的で教条的なものであることに気づかされた。今ごろ気づいても完全に手遅れなのだが。
廣松渉のマルクス論を読んでみて、いちばん「目からウロコ」だったのは、マルクスの思想が唯物論ではないということだ。世界とは人間がそう考えている観念なのか、それとも人間とは独立に存在するものなのかという、古代ギリシア時代からの西洋哲学の論争について、僕はマルクスは世界の客観的な実在を前提とし、世界の物質的条件が資本主義を自壊させて共産主義をもたらすといった歴史観を主張しているのだとばかり思っていた。
しかし廣松渉は、人間の抱く観念こそ真実だと主張する立場も、世界の客観的実在こそ真実だと主張する立場も、どちらもマルクスはしりぞけていると論じている。マルクスはそこにあるのは、人間と自然(この自然も無垢ではなく、人間によって長い歴史の中で変容をこうむってきた自然なのだが)、人間と人間どうしの「関係」だというのだ。
人間と自然の関係を、人間の方にひきつけて自然を人間が頭の中で考えたことに還元してしまえば、それは観念論になり、自然の側にひきつけて自然の客観的実在に還元してしまえば唯物論になる。このように、本来は人間と自然、人間と人間どうしの相互作用であるものを、どちらか一方の極にひきつけてしまう見方を、マルクスは「物象化」として批判している。これが廣松渉がマルクス思想から救い出した物象化論だ。
この物象化論を手がかりにして、廣松渉はハイデッガーの存在論でさえ、部分的にはマルクスの思想から後退してしまっていると批判する。マルクスの物象化論は、マルクスの思想が西洋哲学にとってそう簡単には乗り超えられない射程をもつことを、廣松渉は繰り返し主張している。
今ごろこんなことに気づいて、学生時代にちゃんと廣松渉を読んでおくんだったとため息をついたところで、もうどうにもならないのだが、資本主義の極北の時代を生きる僕らにとって、決してマルクスは過去の人ではないということを知るためにも、一人でも多くの人が廣松渉を復習すべきだろう。惜しむらくは廣松渉の死があまりに早すぎたことだ。