システム・エンジニアの職業倫理

この年末年始、中規模のシステム移行作業をやっていた。全社員のパソコンを1台ずつ設定変更する作業を業者に委託したが、その仕事の品質は期待の7割にも満たなかった。
事前にこちらが考えた手順書にしたがえばよいだけなので、当日あらわれたのが学生アルバイトらしき人たちでも特に不安は抱かなかった。しかし実際には見事に期待を裏切られた。
別の業者のSEと新しいシステム構築の仕事をしていて、何か不具合が起こったときに、僕の方が先に原因をつきとめてしまうということもしばしばある。
たしかに僕の場合、高度な英語力でインターネット検索ができるという優位性があるが、こちらが初めて経験するパッケージソフトウェアの導入で、その製品の導入経験のあるSEよりも、こちらの方が先に不具合の対処方法を見つけてしまうのは一体どういうことだろうか。
また、同僚SEや「元SE」のほとんどが、初級程度のプログラミング技術しか持っていないか、まったくプログラムが書けないことに違和感を抱かざるをえない。
プログラミング言語は人間とコンピュータの意思疎通に欠かせない。「プログラムのできないSE」というのは「英語のできない英語通訳」みたいなもので、言葉の矛盾だ。
英語ができないで英語を話す人々と正しい意思疎通ができるないのと同じように、プログラミングができずに情報システムやIT関連機器を思いどおりに動かすことはできない。「SEの第一歩はプログラミングから」というのは、SE不足の昨今ではもう常識ではなくなっているらしい。13歳からプログラミングをやっている僕の考えの方が古いのだろう。
そして、組織の一員として大規模なシステムの開発・運用を担当していた元SEが、あたかも自分がそのシステムを動かしていたかのような大言壮語を吐いているのを聞くと、端的に悲しくなる。
組織の成果を、自分の成果のように勘違いする。サラリーマンに典型的な肥大した自意識だ。そんな自意識がいかに恥ずかしいか、まったく気づいていないところがいかにもサラリーマン的な凡庸さだ。
オルテガ・イ・ガゼットの『大衆の反逆』ではないが、自らの凡庸さを誇りながら、その凡庸さに無自覚な点こそ、現代の大衆の大衆たる所以であり、サラリーマンのサラリーマンたる所以である。
「コミュニケーション能力が高く」、他人の技術力に寄生して仕事をするSEにはよく出会うが、自ら新しい技術を習得しつづけるストイックな職人的SEにはめったに出会えない。
サラリーマンとしてテキトーに世の中を渡っていくだけなら、確かにそれで十分なのだろう。どんな職業倫理にもとづいて働くかはそれぞれの勝手だが、周囲までその「テキトー」な生き方に巻きこむことはやめてほしいものだ。僕自身はサラリーマン的凡庸さや「テキトー」な生き方におもねるつもりはない。