鈴木邦男『言論の不自由?!』『愛国者は信用できるか』

鈴木邦男の本をたてつづけに2冊読んだ。『言論の不自由?!』(ちくま文庫)と『愛国者は信用できるか』(講談社新書)だ。宮台真司の「転向」以降の対談集や著作の中でよく言及されるので、今まで新右翼の本など一冊も読んだことがなかったが、読んでみようという気になった。
宮台真司を読んでいると、どうやら自分は「ヘタレ左翼」ではないかという気がしてきたからだ。僕が東京大学の駒場キャンパスに入学した頃はまだ駒場寮の古い建物があって、学生自治会の幹部や、新左翼の残党のような人が生活していた。
高校時代にボーヴォワールの『第二の性』を読んで「男らしさ」の強迫観念から解放された僕は、入学間もなくフェミニズム系のサークルに入った。世の中はまだバブル経済の絶頂期で、そんな時代に地味な社会学系サークルに入るような学生といったら、当然、二十年遅れで左翼思想にかぶれているような人たちばかりだ。
僕は60年代、70年代の安保闘争などといった昭和史など全く知らないノンポリのくせして、フランス現代哲学を研究するのには何となく左翼でなければならない程度の政治意識しかなかった。
一度だけ新左翼運動に協力していた先輩に乞われて、何か日本武道館に関する反対署名に署名したことがあるが、そのときもこの署名が公安だか警察だかの手に渡ったら逮捕されてしまうのではないかなどと見当違いな恐れを抱いたりしている始末だった。
それでもその後いちおう自分としては政治的には左翼のつもりで、社会党はもちろん、共産党も信用ならないと考え、デリダの「脱構築」のようなリ体制内改革が自分の政治的信条だと考えてきた。
しかし、これって単なる時代遅れのニューアカデミズムかぶれではないか?と考え始め、結局会社員になってからは、ひたすら組織の論理とサラリーマン的習俗に順応して生きてきて、左翼がどうこうということ自体がどうでもよくなった。
で、最近久しぶりに宮台真司の著作を集中的に読んで、鈴木邦男や見沢知廉などといった名前を目にするにつけて、そういえば左翼にシンパシーを抱いておきながら、まともに右翼の言説に触れたことさえなかったことに気づかされた。
そこで鈴木邦男を読んでみたというわけだが、元左翼(だったのかはきわめてあやしいが)の僕にとって鈴木邦男は新右翼への最適の入り口だと感じた。新右翼といえば言論の自由を抹殺するようなテロリズムの実行犯というイメージが先立って、まともに読むべき言説などないと考えがちだ。
しかし氏は、例えば長崎市長が天皇の戦争責任に言及したときの銃撃事件などについて、右翼のテロリズムは自分で自分の首を絞めているようなものだ、言論の場を自ら奪っているようなものだと非難する。(そして同じ右翼の仲間から脅迫をうけたりする)
愛国心や天皇制の議論についても、宮台真司のいう「ヘタレ右翼」が矛盾した言論や思考停止のロマンティシズムで噴き上がるだけなのに対して、非常に合理的で冷静な議論を展開している。
何より氏の書く文章は不思議なユーモアに満ちている。愛国心とか天皇制とか、政治的に重い議論をしているのに、思わずふきだしてしまいそうになる軽さがあって、深刻ぶったところが一つもない。
それもおそらくは意識的に選択された文体で、氏は街宣車で大声でわめき立てる右翼といったイメージを何とか払拭し、一水会代表を退いた今でも、右翼が冷静な言論の場に復帰できるように言論による努力を続けているのだ。
とにかく右翼といえば街宣車というイメージしかない人は、一度、鈴木邦男のこの2冊を読まれるとよい。『愛国者は信用できるか』の中では、藤原正彦が『国家の品格』の中で書いている「愛国心を祖国愛と言い換えればよい」という提案も、あっさりと一蹴されて痛快だ。