逃げ場さえない日本社会

日経ビジネスオンライン掲載のソフトブレーン代表・宋文洲氏の今週のコラムは、「いじめが自殺につながる日本の『空気』~かつて国が主導するいじめを受けた人間の持論」というタイトルで、バスケットボール部の女子中学生がいじめを苦に自殺した事件にふれている。
宋氏の論は、日本の大人たちは過剰に「頑張ること」を強いるから、子供から逃げ場を奪って追いつめてしまう、という主旨だ。この主張には完全に同意するけれども、日本の「ムラ社会の原理」について、宋氏の論はやや楽観的過ぎはしないか。
そもそも日本社会に逃げ場などあるだろうか?
仮に自殺した岐阜の少女に、大人たちが「部活が苦しければやめてもいいよ」と言ったとすれば、それは内申書を通じて彼女の進路選択の幅をせばめるかもしれない。学校に原因があるから引越ししようとなっても、こんどは両親が引っ越し先でかんたんに職を見つけられる保証はない。そもそも引っ越し先の学校にいじめがないという保証もない。じゃあ義務教育から逃げたらどうなるかといえば、ますます少女の将来の選択肢は狭められてしまう。
このように、日本社会そのものに多様な選択肢がないのだから、宋氏の言うように、我慢せずに逃げるという選択肢そのものが、日本社会では成り立たないのだ。
大人も子供も、いまいる会社、いまいる学校、いまいる部活から逃げようと思っても、そもそも逃げ場がない。逃げることができるのは、たとえばパニック障害のために田舎に引っ越した女優など、ごく少数の「恵まれた」環境にある人たちだけだ。一般人は、そうかんたんに職場を変えるわけにもいかない。転校するわけにもいかない。
ただ、日本の労働市場の流動性が高まればそれでいいかというと、問題はそれほど単純ではない。労働市場の流動性が高まるということは、逆に、正社員の地位が今ほど安泰でなくなるということ、つまり、大人がより激烈な競争にさらされる結果となる。
生徒が簡単に転校できるようになって、「学習市場」(?)の流動性が高まれば、生徒の集まる学校と、集まらない学校の格差が今以上に広がる。そうすると、のんびりしているかわりに偏差値の低い学校にしかいられない生徒は、いまよりも将来の選択肢がせばまる可能性がある。
このように、岐阜の少女を自殺に追い込んだ背後にある日本社会の問題は、「我慢せずに逃げる」という処方箋だけで対処できるほど単純ではないのだ。