「きっこのブログ」の無自覚な坂東眞砂子批判

タヒチ在住の坂東眞砂子という直木賞作家が、日経夕刊の連載で子猫殺しを告白したらしい。飼い猫に避妊手術をしたくないので、生まれてきた子猫を崖の上から放り投げるのだという。
この告白に対して「きっこのブログ」のように感情的な反論をすることは簡単だが、坂東氏を単なる犯罪者・異常者と判断するのは早い。坂東氏がこの行為を選択するに至った「論理」を理解せずして、同様の行為を避けることはできない。
きっこのブログ「猫殺し作家の屁理屈」
きっこのブログ「呆れ果てるイイワケ」
Yahoo!ニュースで抜粋だけ読んだ僕は、生まれたばかりの子猫を殺すのも「避妊手術」の一種で、可能性としての生命を奪うか、目の前に実在する生命を奪うかで、前者を選択しているだけではないか。それを坂東氏は分かっていないと考えた。
ところが問題のコラム全文を読むと、坂東氏自身は自分の行為が「子種を殺すか、できた子を殺すかの差」だと理解している。それでも子猫を殺すのは、大人の雌猫から性の悦びと出産という生の充実を奪いたくないからだ、という。
さらに大前提として「動物をペットとして飼う」こと自体が人間のエゴだと告発し、自分もそのエゴから自由でないことを認めている。その後、坂東氏は「弁明」を公表し、避妊手術は許され、子猫殺しは犯罪だと無条件に判断する価値観に疑問を呈している。
「きっこのブログ」はこれを「呆れ果てるイイワケ」と斬り捨てているが、「きっこのブログ」は坂東氏の自己批判の徹底ぶりを理解できていない。
坂東氏が言っているのは、猫を飼うことについて真に「正義」と呼べる選択肢は、「猫を飼うのをやめる」、この一つだけということなのだ。
それ以外の選択肢をとる人間(坂東氏も含まれる)、つまり、猫を飼っておきながら、避妊手術をしたり子猫殺しをしたりする人間や、そもそも人間様の都合で猫を飼う人間には、いかなる正義も主張する権利がない。
したがって、「子猫殺しより避妊手術の方がマシだ」という考え方は、自己欺瞞性に無自覚だからこそ、より「犯罪的」である。これが坂東氏の論理なのだ。
「きっこ」氏だけでなく、坂東氏を異常者呼ばわりする人々は、坂東氏の問題提起のラジカルさを理解しそこねている。
さらに、坂東氏がそこまで「何が正義か」という議論にこだわるのなら、何故猫を飼うことをやめ、絶望的に孤独な人生にコミットしないのかという意見もあるだろう。(坂東氏自身「私が猫を飼うのは、まったく自分勝手な傲慢さからだ」と認めている)
ただ、先進諸国の動物の権利擁護論が、常に自己欺瞞をはらむ点は忘れてはいけない。たとえ猫を飼うのをやめても、僕らがペットを飼える程度の経済的な豊かさを享受しているのは、誰かがどこかで「子猫殺し」に近いことを、僕らの代わりにやってくれているおかげだからだ。
「きっこのブログ」の筆者は、坂東氏ほど徹底して考えていないからこそ、坂東氏を端的に犯罪者・異常者だと断定できるのだ。坂東氏が犯罪者・異常者なら、日本で安穏と生活しながら、ブログでまったりした言論を垂れ流している僕や「きっこ」氏も、犯罪的であり、異常である。

「きっこのブログ」の無自覚な坂東眞砂子批判」への0件のフィードバック

  1. 愛幻通信

    あえて書くけれど。

    <子猫殺し告白>坂東さんを告発の動き…タヒチの管轄政府
    批判とはどういう状態のことを云うのだろう。
    共感というものが自分の経験から納得できる感情だとすれば、批判をする動機はおそらく反発だ。
    しかし反発と批判は似て非なるものであり、批判と云うときには相手の論点の矛盾をついたり、前提となる知識、情報を元に相手の云う主旨や主張を否定することにあるはずだ。
    簡単に「批判」と書いたり「批判する」と云うけれど、真に批判し�…