日経ビジネスオンライン「Web2.0(笑)の広告学」

日経ビジネスオンラインで「Web2.0(笑)の広告学」という連載が始まっていることに気付いた。筆者の須田伸氏自身が「(笑)」という文字をつけていることからも、梅田望夫氏のようなWeb2.0崇拝とは距離をおいているようだ。
しかし連載の第一回では、梅田望夫式の形式至上主義から、内容至上主義に反転しただけのように読める。
梅田式の形式至上主義、つまり、「Web2.0」の形式さえあれば社会に革命的な変化をもたらすという極論を捨てて、正反対の内容至上主義、つまり、テレビだろうがネットだろうが、中身さえ良ければ勝ち残るという極論に転換しているだけのように読める、ということだ。
このような枠組みが、はたしてインターネット広告の今後について考えるために有効なのだろうか。
連載第一回では、最近YouTubeにアップされたテレビの一場面(お笑い芸人の謝罪シーンや、某ボクサーの父親と漫画家の舌戦など)を例にとり、これらの場面がアップされたのは、やはりコンテンツとして面白いからだ、という議論になっている。
果たしてそうか。逆に、わざわざ時間をとって見たくもないゴシップだから、ネットで見れれば十分と判断されたのではないのか。この手のゴシップが媒体を問わず人々にもてあそばれるのは、洋の東西も、時代も問わない。
もし須田氏が、広告などゴシップと大差なく、大衆にいじられてなんぼだと割り切っているなら問題ないのだが、「ココロに刺さる」という須田氏の表現からは、広告は少なくともゴシップより上質であるべきだという含意が読みとれる。
また、須田氏は内容至上主義を採用することで、消費者の多様性を軽視してはいないか。同じゴシップでも、YouTubeで反応する消費者もいれば、女性セブンで反応する消費者もいるし、そもそも無反応な消費者もいる。多様な消費者グループがお互いにコミュニケーションなく並存しているという状況を軽視してはいないか。
須田氏は、連載の第一回の末尾に次のように書いている。
「これまでは広告主が消費者にリーチする目的と、数の限られているキー局や全国紙、有力な雑誌のコンテンツをファイナンスするだけの費用との間に、バランスが成立してきたとも言えます。/しかし今、このバランスが崩れつつあます。/インターネットやゲーム、ケータイ電話と、消費者が接するメディアもデバイス(機器)も多様化し、マスにリーチするのが以前よりも難しくなっているからです。」
ここには、消費者が多様化している現代においてなお、実在しない「マス」にリーチしたいという、須田氏の実現不可能な欲望が読みとれる。そのような欲望を基盤にするからこそ、広告とゴシップの区別があいまいになるような、内容至上主義が導き出されてしまうのだ。
資生堂の「TSUBAKI」の広告展開が成功しているという須田氏の意見に対し、第二回でさっそく読者から反論されていることからもわかるように、須田氏は広告そのものが、80年代の糸井重里全盛期のような「マス」ではなく、「マイナー」と化していることを十分に自覚していない。
連載の第二回では、YouTubeにおける、消費者を広告の作り手として取込んだ米バーガーキングの新しい取組みに、須田氏はネット広告の可能性を見出している。
しかし、バーガーキングの狙いがPR効果にあることは明白だ。
同社の目的は、YouTubeのユーザで、かつ、映像編集できる技術を持つ超少数派(おそらく米国でも数千人だろう)に訴求することではなく、こうした新奇な取組みが既存のマスメディアに取り上げられることによるPR効果にあることは、広告の素人である僕にだってわかる。
現に須田氏自身が、日経というマスメディアをつかって、そのPR効果に手を貸しているではないか。
したがって、須田氏の主張に反して、バーガーキングのケースがYouTubeの新たな広告モデルになることはない。少なくとも従来の広告より投資効率の良い広告手法にはならない。
ネット上で無償サービスを提供しているすべての企業が、いまだに従来どおりのクリエイティブによる広告や、グループ企業内の金融事業からの収益に依存しているのは周知の事実だ。この広告モデルを打破するような「奇跡」など、ネットは起こしてくれない。
須田氏が企画しているYouTubeに似た「アメーバビジョン」も、収益を上げるには至らない断言できる。(こうしたネット上の草の根メディアは腐るほどあるし、今後も亜流が無数に登場するだろうからだ)
「奇跡」が起こらない理由はきわめて単純だ。消費者が自由に処分できる資源が限られているからだ。特に「時間」という資源である。
ネット広告が一定の収益をあげるには、まず広告を掲載するサイトが消費者の滞在時間を伸ばすために、多額の投資で無償サービスやコンテンツを充実させる必要がある。(ホリエモンのように社長自ら広告塔になる場合さえある)
そして、その多額の投資が、ページビューの増加を通じて広告料に反映される。消費者が「時間」という究極の資源的制約をもつ限り、これ以外の広告モデルは存在しない。時間の制約がある限り、さまざまなメディアが消費者の有限な時間を奪い合い、それに応じて広告料が配分されるだけだからだ。
広告市場そのものが拡大するのは、広告が進化しているからではなく(メディアミックスは江戸時代から存在した)、商品やサービスの品質で差別化することが難しくなった結果、広告による差別化が、相対的に投資効率が良くなっただけのことだ。
こうして考えてくると、須田氏はネットに幻の「奇跡」を求めているとしか読めない。この点で須田氏は梅田氏に近づいてくる。梅田氏は「Web2.0」は一大革命だという幻想をもち、須田氏はネットが広告にブレイクスルーをもたらすという幻想をもつ。
さてさて、どうしてこうも次々とネットに妙な幻想を抱く人々が現れるのだろうか。
このようなネットの偶像化・神格化・理想化こそ、本当に論じるべきテーマであって、ネットが広告にどんな変化をもたらすかなどという、結論の見えた問題をテーマにしてもつまらない。
そこで、須田氏がなぜネットに幻想をもってしまうのかを勝手に分析させて頂ければ、(1)広告の存在価値は「ココロに刺さる」コンテンツにあり、同時に(2)広告は「マス」にリーチすべきものである、という相矛盾したことを前提としているためだ。
「この矛盾の克服こそが広告の奥深さだ」ということは、広告の素人である僕にも想像できる。しかし、だからといってネットにその解決を期待するのは安易という他ない。
3回目の連載が楽しみである。