英語版Wikipedia「二クラス・ルーマン」和訳

宮台真司氏の思想的な基盤になっている二クラス・ルーマンだが、英語版Wikipediaに紹介記事があるので、試しに日本語に翻訳してみたい。
なおこの記事はGNU Free Documentation Licenseのもとでライセンスされており、Wikipediaの記事「二クラス・ルーマン」を利用している。
This article is licensed under the GNU Free Documentation License. It uses material from the Wikipedia article “Niklas Luhmann”.
※ちなみにルーマンを含む「社会システム論」の系譜については、次のブログの記事が参考になりそうなので、リンクを掲載しておく。「社会学しよう!:社会システム論」
「ルーマンの著作
ルーマンは法律から、経済、政治、芸術、宗教、環境学、マスメディア論、恋愛にいたるまで、さまざまなテーマで40冊近くの書物を書いている。その理論は米国社会学に多大な影響を与えているが、現在ドイツの社会学で主流であり、日本や、ロシアを含む東欧で特に受容されている。世界の他の地域での注目度が低いのは、部分的には翻訳の困難さによる。その著作は社会学者を含むドイツ人読者にとってさえ読み解くのが困難なためだ。
北米においてルーマンは、おそらく批判理論家のユルゲン・ハバーマスとの社会システム論の可能性についての論争で最もよく知られている。かつての師、タルコット・パーソンズのように、ルーマンは「グランド・セオリー」の擁護者であり、社会生活のあらゆる側面を普遍的な理論枠組でとらえようとする。彼の著作のテーマの多様性が、何よりもそのことを示している。ルーマンの理論は一般的には非常に抽象的だと見なされ、その著作は読解困難とされている。この事実が、彼の信奉者のややエリート主義的な行動や、その理論に含まれる政治的保守主義とあいまって、社会学の世界でルーマンを議論の的にしている。ルーマンに対する主な批判は、米国学術誌上での、ピユシュ・マーサーによるルーマンの一部の著作に対する詳細な解釈に見られる(「引用もされておらず、根本的でもない:二クラス・ルーマンの環境学的コミュニケーション」コミュニケーション・レビュー誌, 8: 329-362, 2005)。ルーマン自身、彼の理論を「迷宮のようで」「直線的ではない」と書いており、単純な誤解しか産みださない「早急な理解」を避けるために、自分の文章をわざと謎めいたものにしていると言っている。
ルーマンの理論
ルーマンの理論の中核要素はコミュニケーションである。社会システムはコミュニケーションのシステムであり、社会とは最も包摂的な社会システムである。社会システムはあらゆるコミュニケーションを包摂し、かつ、コミュニケーションのみを包摂しているので、今日の社会は世界的な社会となっている。システムはそれ自身とその環境の境界によって定義されることで、無限定な複雑さや(いわゆる)混沌、外部と区別される。
したがってシステムの内部は複雑さが低減されたゾーンとなる。システム内部のコミュニケーションは、外部で利用可能な全ての情報の限定された部分だけを選択することで行われる。このプロセスも「複雑性の低減」と呼ばれる。情報が選択され、処理される基準が意味(ドイツ語ではSinn)である。社会システムと物理的あるいは人的システムの両方が(これらの区別については下記を参照)、意味を処理することで作動している。
さらにそれぞれのシステムは、そのコミュニケーションの中で絶えず再生産される自己同一性によって区別され、何が無意味と見なされ、何がそうでないと見なされるかに依存している。仮に、あるシステムが自己同一性をの維持に失敗すると、システムとして存在することをやめ、それが発生した環境の中へ解消される。ルーマンはこのように、過剰に複雑な環境から、事前にフィルタリングされた要素から再生産されるプロセスを、ウンベルト・マトゥラナとフランシスコ・ヴァレラの認識論的生物学の用語を使って、オートポイエーシス(自己創造という意味)と呼んだ。社会システムはオートポイエーシス的に閉じており、その内部で環境からの資源に依存している。しかしこれらの資源はシステムの動作の一部をなしていない。思想も消化もコミュニケーションの重要な前提条件だが、どちらもコミュニケーションの中にはそのものとして現れない。
ルーマンはオートポイエーシスの動作(環境からの情報のフィルタリングと処理)を、一連の論理的な区別としてのプログラムになぞらえている(ドイツ語ではUnterscheidungen)。ここでルーマンは英国の数学者G.スペンサー=ブラウンの区別の論理を参照している。この区別の論理は、マトゥラナやヴァレラが早くからあらゆる認識プロセスの機能モデルとして採用していたものである。所与のあらゆるシステムの「自己創造」を導く最高の基準とは、二分法(二進数)を定義することであるとされる。
スペンサー=ブラウンのルーマンに対する影響はいくら評価してもしすぎることはない。スペンサー=ブラウンの著作『形式の法則』は、それまで知られていた論理というものをすべて無効にしようとしている。それにともない、スペンサー=ブラウンは本書の序文で自分自身を「宇宙で最も知的な書物」の著者だと称揚している。しかし、マトゥラナはスペンサー=ブラウン以前の論理を適用している。したがって、ルーマンが自らに真理があると主張しても、それは完全にスペンサー=ブラウンの主張に依存していることになる。マトゥラナはオートポイエーシスの問題でスペンサー=ブラウンと和解することはできない。そしてマトゥラナはルーマンの理論を裏付ける理論家として、ルーマンに引用されることをはっきりと断っている。
ルーマンは最初パーソンズの影響下でその社会システム理論を発展させたが、ほどなくパーソンズ的概念から身を引いた。最大の違いは、パーソンズがシステムを、単に社会の中で特定のプロセスが継続することを理解するための分析的道具としてしか利用しなかった点だ。それに対してルーマンは、彼のシステム観を存在論的に扱って、こう書いている。「システムは存在する」と。もう一つの違いは、パーソンズが、社会全体の機能に対して特定の下位システムがどのように貢献するかを問うのに対して、ルーマンが、未規定な環境からさまざまなシステムが自らをどう差異化するか、というところから始めている点だ。ルーマンも確かに特定のシステムが全体としての「社会」に貢献するための機能をどのように満たしているかを考察している。しかしこれは多かれ少なかれ社会全体を見わたすようなビジョンなしに、たまたま起こることだとしている。最後に、システムのオートポイエーシス的な閉鎖性が、パーソンズの概念とのもう一つの根本的な違いである。それぞれのシステムは厳密に自分自身のコードにしたがって動いており、他のシステムが環境をどのように認知しているかについてまったく理解をもたない。たとえば、経済学はまったく貨幣に関することであって、経済システムの内部には、道徳などの外部の観点に対する独立した役割はない。
ルーマンの理論で、一見特異だが、実は厳密に論理的な全体の枠組みにおさまっている公理の一つに、人間の位置づけがある。人間はあらゆる社会システムの外部に存在するという公理だ。あらゆる社会システムは「純粋なコミュニケーション」からなるため、(個人的あるいは物理的なシステムである)人間の意識を明らかに必要としているが、しかしながらそれは、環境的な資源として必要としているにすぎない。ルーマンの言葉によれば、人間は、まさに人間が会話の一部ではないのと同じように、社会の一部分でもなく、いかなる特定のシステムでもない。ルーマン自身、一度端的にこう語っている。「私は人々には興味がない」と。
ルーマンは20世紀初頭マックス・ウェーバーによって社会学に導入された非規範的な学問という理念に専念し、後にカール・ポパーの批判に対してその理念を再定義し、擁護した。しかし、社会に関する記述的理論と規範的理論を必ずしも厳密に分けない学界において、ルーマンの「反人間的」社会学は、最も有名なところではユルゲン・ハバーマスなどを含む「人間解放的な」科学者から広範な批判を受けている。」

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  1. ポスト・ヒューマンの魔術師

    【1】「ウィキペディア日本語版」は「無知」を量産しながら「権威主義的なボランティア」を気取るのです。

    まずは学術的な書物よりも「ウィキペディア日本語版」が求められる理由から。