宮台真司・速水由紀子『サイファ 覚醒せよ!』

宮台真司・速水由紀子著『サイファ 覚醒せよ! 世界の新解読バイブル』が2006/09/10に文庫化されていたので購入して読んでみた(ちくま文庫)。
(それにしても、いかがわしい自己啓発書のような題名はいただけない。宮台氏のパートナー、速水女史の発案に違いないが、サイファが「暗号」を意味する「cipher」だと分かる僕のような人間は別として、ふつうの人には「アレフ」と同じいかがわしさを与えるおそれが十分にある。速水女史の狙いなのかもしれないが...)
東京大学博士課程出身の気鋭の社会学者、宮台真司氏の著作で、僕がいちばん最近読んだのは『美しき少年の理由なき自殺』だが、僕の中では依然として、宮台氏の思想についての理解は、オウム事件直後に書かれた『終わりなき日常を生きろ』(ちくま文庫)の段階にとどまっていた。


つまり、個々人が自分のミニマルな欲望にしたがって生きる「まったり」した生き方を肯定する考え方だ。社会全体は、「島宇宙」のような趣味を同じくする無数の小さなグループに分断されて、個々人はその島宇宙の中で自分の存在理由や尊厳といったものを確認できればいい。それが宮台氏がこれからの時代を生きる処方箋として、提示した生き方だと理解していた(僕が誤解している可能性は高いが)。
しかし2000年に出版され、今回文庫化された『サイファ 覚醒せよ!』を読むと、宮台氏が社会の外側にある「世界」の存在を手がかりにして、島宇宙の散在という社会観から、明らかに一歩踏み出しているように読めた。書店で立ち読みしてそれがわかったので、購入してみたというわけだ。
おそらく宮台氏にその一歩を踏み出させたのは、『美しき少年の理由なき自殺』で書かれている宮台フォロワーの少年の自殺の一件らしい。この文庫版のあとがき(p.319)で、宮台氏自身がそう告白している。
宮台氏のいう「社会」とは、まさに氏の専門である社会学が対象とするコミュニケーションの全体としての「社会」だが、本書『サイファ』で、宮台氏は自覚的にその「社会」の外側にある「世界」を主題にしている。
あくまで社会学の枠内で宮台氏の考え方をフォローしてきた人たちにとって、社会の外側に広がる「世界」という視点は新鮮にちがいないので、いかがわしいタイトルは無視して、本書『サイファ 覚醒せよ!』を強くおすすめする。
しかし、高校生のときからフッサールの現象学を勉強し始め、大学でフランス現代思想をかじった僕にとって、本書で宮台氏がくりかえし確認している「世界の根源的な未規定性」はむしろなじみ深いものだ。

「世界」そのものを定義しようとすると、定義の根拠となるものをまず定義する必要がでてくる、といった「無限後退」におちいってしまう。これは西欧現代思想をかじっていれば、おなじみの考え方だ。宮台氏は本書の後半で、フッサールの「超越論的主観性」や、ゲーデルの「不完全性定理」を例としてあげている。
端的な訪れとしての世界、という『サイファ 覚醒せよ!』における宮台氏の「世界」観は、フランスの現代思想家、エマニュエル・レヴィナスの「顔」の概念も想起させる。
宮台氏はこの世界の根源的な未規定性という問題設定に気づくこと自体が、日本社会の同調圧力(みんな仲良く、同じでなければいけないという圧力)から自由になる手がかりだとしているが、残念ながら学生時代に超越論的主観性を学んだ僕にとって、フッサールの思想は、サラリーマン社会の同調圧力から自らを救う手がかりにはまったくなっていない。
ただ、だからといって、フランス現代思想に慣れ親しんだ者は、本書『サイファ 覚醒せよ!』を読む必要はない、ということにはならない。
宮台真司という、いまの日本にとって最も重要な思想家の転換点を理解することで、オウム事件以降、日本の社会も一つの重大な転換点をむかえているということを理解できるからだ。
とくに麻原彰晃の死刑が確定した今、オウム事件以降のこれからの社会に対して、宮台真司がどのような処方箋を提示しようとしているのか、それを理解するために、いったん本書でその転換点をおさえておく価値は十分にあるだろう。
ところで僕は『サイファ』以降の宮台氏の思想的展開として、さっそく『神保・宮台(激)トーク・オン・デマンドIII ネット社会の未来像』(春秋社 2006/01/25刊)を読み始めた。
『サイファ』でも宮台氏は東浩紀氏を高く評価している。この「愛と苦悩の日記」でも東氏の著作を取り上げたことがあるが、東氏は若手のデリダ研究者として実績を評価され、多方面で活躍している。この対談集でも東氏の興味深い意見交換を読むことができる。『ネット社会の未来像』については、読了したらまたここで触れてみたい。

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