制度化された安楽死の必要な社会

2006/08/17に自殺した愛媛県今治市の中学1年生の少年の遺書が発見され、日経新聞でさえ社会面に全文を掲載していた。「最近生きていくことが嫌になってきました」という書き出して、クラスのいじめが自殺の原因だったことが端的にわかる。
老若男女問わず、日本社会から「いじめ」を根絶することは、まず不可能だ。いじめ相談の窓口をもうけたとしても、事件性がない限り、介入するにも限界がある。民事で損害賠償請求したって、いじめが改善されるわけではなく、被害者はますます孤立するだけ。
いじめる側は数にものを言わせて、「合法的な」手段をとるので、やったもの勝ちなのだ。
僕は心情的には、いじめを刑事罰にする法律を作って、今回のように被害者を自殺に追い込んだ加害者には実刑を与えるくらいのことをしてもいいと思う。しかし、そうするとこの刑事罰を逆手に取った「いじめ」が必ず出てくる。
自分がこの少年の立場だと想像したとき、何がいちばんの救いになるかを真剣に考えると、最終的には「生きることの苦痛」をやわらげることしかないのではないか。「命を大切に」なんていうのは、いじめで自殺するほど苦しんでいる人間にとっては、所詮「きれいごと」でしかない。
老老介護で無理心中に追い込まれた人々や、先日、宮崎県延岡市の堤防上で高校生5人を襲った容疑者にしろ、生きることが苦痛でしかない人々を生かしておくことが、無条件に正しいことかどうか、疑わしい。
それこそヴォネガットの小説に登場する「自殺パーラー」のような、「制度化された安楽死」がますます必要になってくるのではないかと考えざるをえない。
生きたい人には、あらゆる最先端の医療技術を総動員して、生きさせてあげるべきだが、死にたい人には、苦痛がなく「安全」な安楽死の方法を提供するのも、少子高齢化社会の究極の「福祉」ではないか、とも考えたりするのだ。
残された人たちの無念はわかるけれど、今回の少年だって、いじめをうけたまま生き続けるよりは、自殺という選択をした方が幸福だったと言えないだろうか。

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