『ターンAガンダム』完走、『ニーベルンゲンの歌』読了

『ニーベルンゲンの歌(上)(下)』(岩波文庫)を読み終えた。そして『ターンAガンダム』全50話をようやく観終えた。なんとか視聴期限の2006/07/27前の週末に間に合った。ドイツ中世騎士物語と富野由悠季に何の関係があるのかと思われるかもしれないが、『ニーベルンゲンの歌』の最後はまさに「女子供」以外は一人残らず戦闘で死んでしまうという、血で血を洗う富野的「皆殺し」状態だ。
もちろん韻文としての格調の高さこそが『ニーベルンゲンの歌』を、ゲーテの『ファウスト』とならぶドイツ文学の金字塔たらしめているのだけれど、物語の中身は、クリエムヒルト姫が家臣に夫のジーフリートを暗殺された仇討ちのため、あえて他国の王子と再婚し、その国の勇士と軍勢を利用するが、最後には殺められるという、アニメのようなお話である。
古典文学のこういう意外な楽しみを、この年齢になるまで味わわずにきたのはもったいないということで、『とりかえばや物語』の中村真一郎現代語訳版も読んで見ることにした。
じゃあ『ターンAガンダム』は最後まで観ていったいどうだったのかと言えば、感想としては先日書いたとおり、主人公の少年ロラン・セアックとターンAガンダムの仇敵として、ギム・ギンガナムといういかにも漫画的な登場人物と「ターンXガンダム」が登場して以降は、ほぼ観るに値しない。
たしかに最終話の最後の最後に、月と地球が二度と「黒歴史」と呼ばれる悲惨な戦争の歴史をくり返さないための、究極の秘策がタネ明かしされるというどんでん返しがあるのだが、明らかに尺が足りなかったようで、最終話に近づくにつれて物語の進展がどんどんあわただしくなり、じっくり楽しむどころでなくなってしまう。
ターンAガンダムとターンXガンダムが相討ちして「繭」になった(本作をご覧でない方には何のことかさっぱり分からない表現で申しわけない)、その後日談の部分は、2話分くらいの時間をかけて、たっぷりと物語ってもらいたかった。
それにしても、こういうガンダムを作っておいて、富野由悠季がなぜその後に『ガンダムSEED』のようなシリーズの製作を許したのかが理解できない。ターンAガンダムのパイロットである少年ロラン・セアックは、最終話まで人を殺すことをためらっている。そんな風に『ターンAガンダム』の反戦色は強烈なのだが、『SEED』は初代ガンダムの、普通の人間と特殊能力をもつ人間という図式に逆戻りで、戦争のための戦争、皆殺しの富野の復活でしかないように思うのだが。
もちろん、アニメ作家に過剰な期待をしても仕方ないといえば仕方ない。