大塚康生『作画汗まみれ』

日本の代表的なアニメーターである大塚康生氏が書いた『作画汗まみれ 増補改訂版』(徳間書店)を読んだ。もともと叶精二著『日本のアニメーションを築いた人々』(若草書房)で、この「愛と苦悩の日記」でもとりあげた『白蛇伝』など、東映アニメーションの創成期を支えた個性的なアニメータの一人として大塚康生氏について書かれており、大塚氏自身の著作があるということで当たってみたのだ。
大塚康生氏は作画監督として『太陽の王子 ホルスの冒険』(1968年)、『未来少年コナン』(1978年)、『ルパン三世 カリオストロの城』(1979年)など、宮崎駿、高畑勲両氏との協働作品が多い。
『作画汗まみれ』の中で、今の日本のアニメーションに対する氏の意見は一貫している。それは、アニメーションというものはとにかく登場人物を動かすことが全てだ、という意見だ。
ただし、大塚氏はディズニー作品のようなフルアニメーションを無条件に賞賛しているわけではない。1秒8枚のセル画からなるリミテッドアニメには独自の個性があると考えているし、単発ものの長編劇場作品と違って、20分強の作品を毎週一本作り続けなければならない日本のアニメ制作の現場を考えれば、時間的な成約から「動かす」ことに徹底的にこだわることはできないことも認識している。
しかし同じセルの使いまわしや、「止めの美学」など動かさないことに安易に頼ってしまったのでは、登場人物に適切な演技をつけることができるアニメータが育たないという。その点に大塚氏は日本のアニメーションの未来に危機感を抱いているようだ。
そう言われて、あらためて毎日のようにテレビで放送されている30分もののアニメ番組を観ていると、アニメという言葉と矛盾するように、絵がほとんど動いていないことに気付く。動いているように見えても、それはセル画が水平に移動しているだけだったり、同じ動きをループのようにくりかえしているだけだったりする。
職人としてのアニメータは、演出家の意図どおりに登場人物に演技をさせなければならない。ちょっとした瞳の動き、指一本の動きが登場人物の演技を構成する、小さな要素の一つひとつになる。演出意図に対して適切な動きをつけられないのであれば、アニメータの存在価値はないというのが、大塚氏の主張のようだ。
そういった大塚氏の動画にかける誠実な情熱が、控えめながらも強く訴えかけてくる、そんなエッセーである。