富野由悠季『ターンエーの癒し』

で、古くは『鉄腕アトム』のテレビアニメ版の制作にもかかわり、『無敵超人ザンボット3』や『機動戦士ガンダム』の監督でもある富野由悠季(旧名:富野喜幸)という人が、いったいどういう人物なのか。まとまったエッセー集はないかと探したところ、『ターンエーの癒し』(角川春樹事務所)という本が近所の図書館で見つかったので読んでみた。
このエッセー集は富野氏が『ターンAガンダム』の制作期間中に、どういう形でかよく分からないが書きためた文章をまとめたものらしいだが、富野由悠季という人の人となりが本人によって正直に吐露されている。
SM好きで、大学時代に女性の縛り絵を描いていたという、自らのセクシャリティの告白とからめた、日本人の性に対する考え方の変化を論じた部分まで登場する。また、富野という人が、自虐的で自分の才能に常に懐疑的であるくせに、周囲に対してひどく批判的であることがよく分かる。
そのために親友が一人もおらず、私生活では伴侶の亜々子女史を除けば、つねに孤独であることも書かれている。もちろん、富野氏はそのことを公に出版する書物に書けるほど、自覚的であり、『ターンAガンダム』の制作を通じて、そんな自分のスタンスが変化しつつあることも記している。
僕がこの本を読んだのは、アニメーションの制作において「監督」は何をやる人物なのかを知りたかったからなのだが、このひどく自虐的で内攻的なエッセー集に、『ザンボット3』や『ガンダム』の底を流れる暗さの理由をはっきり読み取ることができた。
ところで「監督」としての富野氏の仕事は、「物語世界の概要をうみだして、そのストーリーをかく。どうじにキャラクター・デザイナーとメカニック・デザイナーをえらびだして、ストーリーにそったデザインをつくってもらう。それに並行して、ぼくが構成案をかいて、その検討の段階でシナリオ・ライターに参加してもらい、シナリオを執筆してもらう。(中略)そして、シナリオのオーケーをだしたら、それをコンテ・マンにわたして、コンテにしてもらう。そのコンテを修正するのが、ぼくのメインの仕事になるのだが、僕の場合は、このコンテの加筆修正をすることで、創作上のワーキングの大半がおわる。なぜなら、コンテでフイルムにあらわれる表現の70パーセントを支配してしまうのだから、おわったとするのだ。」(同書p.155)
富野氏にとって、自分の演出意図が最終的に作品にきめ細かく反映されるかどうかは、コンテにかかっているようだ。「このコンテをきるという仕事は、一頁に五こまの桝目があって、そこに絵を描き、その右に、絵の内容説明とセリフをかきいれるスペースのある用紙をつかう」(p.156)。
コンテとは「演出指示の設計図といった性格の書類」(p.80)で、コンテを書くという仕事は、「視覚印象の力学をつかってドラマのストラクチャーを創作していくという仕事なのだから、画面構成によっては、台詞を変更することもでてくる。場合によっては、シーンそのものの変更、差し替えもありえると判定できる」(p.83)。
「アニメの場合のコンテは(映画と違って)、アニメーターのえがくべき画面のレイアウトの指示とどうじに、演技を指示するという性格をもっている」(p.83)。「たとえば、こうだ。TOP、ロラン(『ターンAガンダム』の主人公の名前)立ち止まり、右目線。左にむく。そのときのポーズはこれこれ……。左よりディアナ(同じく登場人物の名前)、Fr.I(フレームイン)。台詞の項目には、ロランの右目線のとき『なんです?』。ディアナにむいて、『どこにいらっしゃったんです?』」(p.157)
お読みになってお分かりのように、富野氏のコンテは画面に登場するキャラクターの一挙手一投足に、外形的な演技を厳密につけていくようにして書かれる。僕はなるほどと思った。ここまで厳密に登場人物の演技を指定するのだから、最終的な作品の画面は、ほとんど富野氏の意図どおりになる。
ただ、さきに引用したように、富野氏はすべてのコンテを自分で書くわけではなく、コンテ・マンの書いたコンテをチェックする役割にまわる。本書では、修正しなくてもいいようなコンテを書いて来い、といった、スタッフに対する批判も正直に書かれている。
本書を読むことで、富野氏がアニメーション制作の現場でどのような仕事をしているのかがよく理解できた。
ところで、本書に一箇所だけ『無敵超人ザンボット3』についての意外な言及がある。『ターンAガンダム』最終回の打ち上げパーティーについての記述の中だ(p.273)。興味のある方は、直接、本書をお読みいただきたい。富野アニメのファンなら、この『ターンエーの癒し』は必読書だろう。

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