いまも変わらない『太陽の王子 ホルスの冒険』

高畑勲監督、宮崎駿・大塚康雄製作の『太陽の王子 ホルスの冒険』(1968年)を最後まで観たが、想像以上の完成度で驚いてしまった。
主人公の少年ホルスが同じ孤独を分かち合う少女ヒルダ(実は悪魔グルンワルドの魔法によってその妹にされてしまっている)の声優が、40年前とはいえ市原悦子であるこが頂けないので、声優さえ一新すれば、いま、デジタルリマスタリングして、音声もドルビー化することで、十分子供向け新作長編アニメとして通用する躍動感と疾走感のある演出である。
脚本も単純な勧善懲悪ではなく、悪魔の妹であるヒルダが、悪魔としての人格と、人間としての善良な人格をあわせ持つことで葛藤し、少年ホルスが村人たちと協力してその善良な側面をヒルダの命とともに救い出すという物語で、ホルスがヒルダと剣を交える場面もある。
秀逸なのはヒルダとの戦いによって、少年ホルスが「迷いの森」という、一種の精神世界のようなところへ突き落されたあとの抽象度の高い一連の描写である。「迷いの森」の中でホルスは、悪魔としての孤独なヒルダをどうすれば人間たちの世界に連れもどすことができるのか、その苦悩が心象風景として描かれる。
先日、『新造人間キャシャーン』の富野喜幸監督による演出で、「見えないもの」を見せる点を特徴としてあげたが、『太陽の王子 ホルスの冒険』の終盤にある「迷いの森」の心象風景は、十分な制作費と時間のおかげですでに一定の完成度に達したシーケンスになっている。
戦闘シーンは『少年猿飛佐助』の終盤、猿飛佐助と妖女との空中戦のたどたどしさ、躍動感のなさ、スピード感のなさと比べると、『太陽の王子 ホルスの冒険』は冒頭の少年ホルスと狼の群れの戦いからいきなり強烈なリズム感に満ちている。
しかし、逆に言えば高畑勲、宮崎駿の二人は、『太陽の王子 ホルスの冒険』から一歩も踏み出していないように見える。心の中に深い孤独と葛藤を抱き、ホルスに向かって剣をふりおろす残酷さをもちながら、表情に乏しい少女ヒルダは、容易にナウシカやサンを思い出させる。とくに異性に対する恋愛感情をまったく表情にあらわさない演出は一貫している。
また、村人たちが協力してふいごを動かし「太陽の剣」を鍛える場面は、容易に『もののけ姫』のたたら製鉄の場面を想起させる。このような、群集が一致団結した力強さを描く場面の、地の底から空へと湧き上がるような演出法も、今に至るまでほとんど変わっていないのではないか。
いずれにせよ、やはりこうして日本アニメーションの名作を時系列で観ていくことには、かなり意味がありそうだということが分かってきた。
『太陽の王子 ホルスの冒険』についての英語のWebサイトをいくつかあげておく。
The Great Adventure of Horus, Prince of the Sun (55枚のスクリーンショットの引用付き評論)
Horus: Prince of the Sub (脚本の「哲学的な深さ」や戦闘シーンの動きのなめらかさが評価されている)
Hols: Prince of the Sub (英語版ウィキペディア。東映アニメがディズニー作品の単なる鋳直しから真の意味で脱した最初の作品だと評している。村が狼の群れに襲われるスチルショットのシーンは、演出意図ではなく、予算・時間超過のためにやむを得ずそうなったらしい。また、もともと高畑勲が想定した登場人物たちは東北地方の先住民・蝦夷の設定だったが、東映からの圧力で北欧に変更させられたようだ。)