日本初の長編カラーアニメ『白蛇伝』(1958年)

日本のアニメーションを勉強するなら原点からということで、日本初の長編カラーアニメーション作品『白蛇伝』(東映・1958年)をUSEN+楽天市場のShowtimeで観た。光回線とパソコンがあれば観たいたいていのアニメ作品をいつでもレンタルビデオとほぼ同じ料金で観られる。グーグルどころではない生活の変化である。
明らかにディズニーのアニメーションをお手本に製作された、キャラクターの動きが滑らかで美しい作品だ。『戦闘美少女の精神分析』に取り上げられていた場面も堪能できた。このアニメーション作品は、人間の少年と、白蛇の妖精である少女が困難を乗り越えて恋を成就させるという物語になっている。途中、白蛇の妖精に惑わされていると思い込んだ妖術遣い(太った中年男)が、水晶玉を片手に白蛇の妖精である少女と闘う場面が登場するのだ。
妖術遣いがエイヤッという気合とともに手を突き出すと、水晶玉がぴかりと光る。この光はどうやらセル画の背景から光を透過させているらしい。この作品、冒頭の雷雨のシーンからして既に、この透過光(どなたか正式名称を教えてほしい)の手法が使われている。絵の具の色ではなく、本物の光でフイルムを露光させているのだ。
僕はこの手法は新しいものとばかり思っていたのだが、日本初の長編カラーアニメの冒頭のシーンで登場したので驚いてしまった。そして妖術遣いと少女の戦闘シーンでも、水晶球がぴかりと透過光で光る。それに対して少女は、恋を成就させるためならと全力で戦う。ここでも日本初の長編カラーアニメにして既に、「健気な」戦闘美少女の登場である。
しかも白蛇の妖精であった少女は、妖術をつかう能力を捨て、妖精から人間になることと引き換えに、瀕死の少年の命を救い、ついに人間の少年との恋を実らせる。少年と少女は二人して船に乗って旅立つその空に、七色の虹がかかる、というのがハッピーエンドのラストシーンだ。
待てよ。これってどこかで観たことはないか。人間でない妖精の少女が、妖精であることを捨てることで少年との恋を実らせ、空には七色の虹がかかる。『交響詩篇エウレカセブン』の物語構造とよく似ている。
『交響詩篇エウレカセブン』の最終回では、コーラリアンという生命体である少女エウレカが、「クダンの限界」と呼ばれる破滅から地球を救うために、少年レントンの元を離れて、コーラリアンの中枢神経のような存在(「指令クラスター」と呼ばれる)になる絶対的な孤独を選択する。
ところが少年レントンは、人間とコーラリアンの心の橋渡しをする「船」である巨大人型ロボット「ニルヴァーシュ」に乗って、指令クラスターの内部に突入し、少女エウレカを救い出す。その瞬間、地球は七色の虹に覆われ、地球上のすべてのコーラリアンは地球を去って、もとどおり地球を人間に返し、宇宙の別の世界で行き続けることを選択する。しかし「ニルヴァーシュ」は、少女エウレカだけは人間の少年レントンと地球に残るように言い残す。
もちろん、人間と異生物の恋愛物語は『キングコング』や『美女と野獣』の例を出すまでもなく、幾度となく繰り返されてきたパターンなのだから、『白蛇伝』がどこか『交響詩篇エウレカセブン』と似ていても何の不思議もない。
ただ、こうして書いていて気づいたのだが、今あげた『キングコング』も『美女と野獣』も男性側が異生物だ。日本の民話である『鶴の恩返し』は女性側が異生物。ギリシア・ローマ神話の変身譚には詳しくないので分からないが、
(1)男性側が人間で、女性側が異生物の異性愛。
(2)女性には人間にない特殊な能力がある。
(3)女性が恋愛を成就させるために闘う。
(4)女性が異生物から人間になることで、初めて恋愛が成就する。
この4項目すべてに当てはまる恋愛物語は、実はそう多くないのかもしれない。
話はそれたが、表現手法のレベルで『白蛇伝』が想像をはるかに超えた完成度に達していることにとにかく驚いた。ディズニーの『ファンタジア』と同じくらい驚いた。『鉄腕アトム』をはじめとするテレビシリーズのリミテッドアニメーションは、『白蛇伝』のようなフルアニメーションからの退化では決してなく、限られた予算と時間の中でフルアニメーションにはない独特の表現技法を洗練させていく、まったく別の系列のアニメーションと考えるのが正しいということなのだろう。