東浩紀を読んで梅田望夫氏の根本的な誤りを考える

久しぶりに東浩紀の本を読んだ。『動物化するポストモダン―オタクから見た日本社会』(講談社現代新書)だ。斎藤環『戦闘美少女の精神分析』(ちくま文庫)の文庫版あとがきだったかで触れられていたからだが、しばらくぶりにフランス・ポストモダン思想系列の読書に戻って来たといったところか。
実はジョン・R・サール『マインド―心の哲学』(朝日出版社)を半分ほど読み進めていたのだが、やはりどうも二元論や唯物論を地道に論駁するスタイルがまどろっこしくてついて行けない。決して面白くないわけではないので、続きはまた読みたいのだが、斎藤環や東浩紀など、ポストモダン系の言説の快刀乱麻ぶりと比較すると、どうしても読み続けるのがおっくうになってしまう。年をとったということか。
で、『動物化するポストモダン』でオタク系文化を分析して東浩紀が書いている「データベース型消費」を読み、大発見があった。それは、梅田望夫の『ウェブ進化論』の方法論的な誤りである。しかも致命的な。
梅田望夫の根本的な誤りは、「大きな物語」が失われた後の世界を象徴するインターネットに、なおも「大きな物語」を読み込もうとしている点にあるのだ。グーグルという会社に関する類書も同じ誤りを犯している。まるでグーグルが、梅田氏の言う情報発電所をもって世界を支配しているかのような「大きな物語」を、インターネットという本来は中心のない構造の中に誤って読み取ろうとしている。この点が梅田望夫氏の決定的な誤りである。
おじさん世代が梅田望夫の言説に「すごい!」と反応し、「わかった」つもりになってしまうのは、まさに「大きな物語」を提示しているからである。おじさんたちの生きてきた時代は、戦後の圧倒的なアメリカ文化の存在だったり、冷戦時代の自由主義と共産主義の対立だったり、自分の生きている世界をすっきり説明できる図式があった。東浩紀はこのような図式を、大塚英志の言葉を借りて「大きな物語」と呼んでいる。
しかし、現代の消費生活を見れば、人々の趣味や嗜好は細分化されており、世界政治を見ても、冷戦時代のような西(自由主義諸国)と東(共産主義諸国)、80年代の北(先進国)と南(発展途上国)といった大きなくくりはもはや無効になっている。
そしてそのような現代を象徴するインターネットも、中心がなく、分散化された情報が、恣意的なハイパーリンクで互いに接続されているという点にその本質がある。インターネットは、接続手段という点でも、パソコンからでも携帯電話からでもテレビからでも、いかようにも使えるし、使用目的という点でも、一人ひとりが好き勝手に利用できるし、利用者によってどのようにも使えるものである。
そんなインターネットに対して、グーグルやアフィリエイトプログラムといった特定の企業や機能が、あたかもインターネットの本質を規定しているかのように「大きな物語」を持ち込んでしまっているのが、梅田望夫だったというわけだ。
そうすることで、梅田望夫はインターネットの本質を完全に誤解させることに成功している。そして梅田望夫の本を読んでインターネットがわかったつもりになったおじさんたちは、自分が誤解していることにさえ気づかない。
東浩紀にならって言えば、「大きな物語」がなくなった世界で、麻原彰晃という人物の提示した「大きな物語」に飛びついてしまったオウム真理教の教徒たちと、梅田望夫の提示したインターネットに関する「大きな物語」に飛びついて分かった気になったおじさんたちに、大きな差はないということになる。