魚津郁夫著『プラグマティズムの思想』

魚津郁夫著『プラグマティズムの思想』(ちくま学芸文庫)を読んだ。『国家の品格』は明らかに反米色が強いが、藤原正彦氏の「論理には限界がある。だから論理以外のもの、つまり『情緒』でバランスをとるべきだ」という主張には僕は賛成できない。
俗っぽい表現をすれば、論理に限界があるからこそ、論理を突き詰めなければ、本当のことは見えてこないと考える方が、「武士道」って感じがするからだ。論理がダメだからって、さっさと論理から逃げるのは、やはり「武士道」に反する「卑怯」なのではないか。
藤原正彦氏が嫌いな米国を、根っこのところで支えているのがプラグマティズムという考え方で、『プラグマティズムの思想』はそのコンパクトな入門書になっている。もともと放送大学のテキストとして書かれているので、哲学史にくわしくない人にもわかりやすく書かれている。『国家の品格』の考え方に疑問をもっている人にはおすすめの本だ。

魚津氏はプラグマティズムの肝になる考え方を、C・S・パースという思想家の「可謬主義」だとしている。「認識能力に限りのある私たち人間は誤謬をおかす可能性をつねにもっている」という考え方だ。
人間は仮説と検証を重ねることで自己修正し、より確かなものへと少しずつ近づいていくことができる。しかし、絶対に確かなもの(=真理)というのは、無限の検証のくりかえしの先にしか見つからないので、実際にはそこにたどり着くことはありえない。
では、そのような探求をつづけることで、人間が「ひとつのおなじ結論に導かれる」のかと言えば、同じプラグマティズムでも思想家によって意見がわかれるようだ。
パースはひとつのおなじ結論に導かれると考えたが、クワインという思想家は、観点によって真理の定義は異なると考える。そしてローティーという思想家は、さらにおしすすめて、真理を見つけるのが探究の目的だと考えること自体を否定し、異質な個人どうしが会話を継続することが哲学だと主張する。
真理について見解は分かれているが、プラグマティズムが論理の限界を認め、だからこそ検証や会話を重ねていくことで、一歩ずつ確かなものに近づこうと言っている点は、すべての思想家に共通している。
論理には限界があるからこそ、検討や会話が必要なのだから、論理に限界があるからといって、手っ取り早く論理をすっ飛ばしてしまったのでは、かえって論理の限界をそのままにしてしまうことになる。
残念ながら人間は論理から完全に逃げることはできない。であれば、論理の限界を少しでも減らすために、論理的な検証や会話をつづけることこそ、正しい方法ではないのか。『プラグマティズムの思想』を読んで、あらためてそう考えた。