梅田望夫氏が求める新たな「権威」とは

この「愛と苦悩の日記」の『ウェブ進化論』批判について、ようやくトラックバックを頂くようになった。今日『いっつあんのひとり言』というブログから頂いたトラックバックの記事「『ウェブ進化論』は権威主義か?」に書かれていた反論に、ここで反論しておきたい。
まず「いっつあん」さんは、僕が、『ウェブ進化論』がベストセラーになっている原因は、梅田氏の学歴や経歴に対する日本人の権威主義的な反応だ、と書いていることに反論して、「まず梅田さんが興味を持たれているのは東大の院卒だからというわけではないと思う。むしろシリコンバレーで長年コンピュータ界の変化を見てきた”経験”、また”はてな”のプロジェクトに参加していることなどの方がよっぽど重要だろう」と書いている。
しかし、シリコンバレーは、アメリカという国に対して複雑な感情をもつ日本人にとって、そしてITに強くない人々にとって、立派な「権威」である。シリコンバレーでの日本人としては先進的な活躍、その後の「はてな」という斬新なITベンチャーでの活躍、これがITに弱い多くの日本人にとってなぜ「権威」でないと言えるだろう。むしろ筑摩書房はそのような梅田氏の経歴に、ネット世界を語るだけの「権威」があると見て、白羽の矢を立てたと考える方が自然だろう。
また「いっつあん」さんは、僕が、ネット上の総表現社会では、多種多様であるべき意見が一つの意見に集約されていくと書いていることに反論して、「梅田さんは別に日本人の意見が多種多様になるとは本書で述べていない。現在のブログの様子は結果的に多種多様ではない、権威主義的な日本人の姿を率直に反映しているだけではないか」と書いている。
この点は「いっつあん」さんの書かれているとおりだ。梅田氏はたしかにウェブによって日本人の意見が多種多様になるとは書いていない。しかし梅田氏は『ウェブ進化論』の第四章などで、玉石混交の状態が「玉」へと集約されていく期待を明記している。それは既存の権威と戦う必要があるからだ。
同書のp.147で梅田氏は次のように書いている。既存の権威は「『石』の悪質さを過激に指摘する方向に走ったり、玉石混交の面倒さを切々と論じたりする」。そのような「権威側が指摘する諸問題を解決するためのテクノロジーは、日進月歩で進化している。既存メディアの権威が本当に揺らいでいくのはこれからなのである。」
この部分をよく読んでみると、梅田氏が玉石混交を「玉」へ集約すること自体は善であると、何の議論もなく前提としてしまっていることに気づく。梅田氏が問題にしているのは、その玉石混交から玉を選別する権利を、既存の権威が独占していることであって、玉石混交から玉を選別すること自体ではない。
依然として権威主義の強い日本において、このような梅田氏の議論は、ネットをもう一つの「権威」にすること以外の何を意味するだろうか。既存の権威は「玉」を選び出す権利を行使することで「権威」たりえているのだから、それをネット世界が持つようになれば、ネットは新たな「権威」になる。わかりやすい議論である。
その証拠に、梅田氏がネット世界の言論を描写するとき、「甲子園」とか「コンテンツの自由競争」などといった表現を使う。これは多種多様な意見が、多種多様なままにとどまるのではなく、その意見の中から「勝者」=「玉」が決まることを梅田氏が期待していることを示している。
梅田氏は、グーグルのページランキングやWikipediaのような仕組みが、「玉」を選び出すためのテクノロジーであると明言している。つまりこれらの新しいテクノロジーは、既存の権威から「玉を選別する」権利を奪うために必要なテクノロジーだと明言しているのだ。これが新たな形の権威主義でなくて何だろうか。
もし梅田氏が本当にネットを新たな「権威」にしたくないのであれば、単に次のように主張すればよかったのではないか。「どうして『玉』を選び出す必要などあるのか。『玉』か『石』かを決める権利は誰にもない。ただそこには永遠の対話があるだけだ。『玉』か『石』かを決めなきゃいけないなんて、それこそ権威主義だ!」と。
もちろん政治的な意思決定の際は、民主主義は多数決の原理に従わざるを得ないが、ネット上の議論で一体どうして「玉」か「石」かを決める必要があるのだろうか。なのに梅田氏は、それを決める必要があると明記している。そして近い将来それを決めるのが、既存の権威ではなくネット世界であるという期待を表明している。梅田氏は新たな権威による「玉」の選別をはっきりと求めているのである。