敢えて「敢えて藤原正彦氏を弁護する」に反論する

とある読者の方から、藤原正彦著『国家の品格』を擁護するブログをご紹介いただいた。Leiermann氏の「Niemals-Gasse」というブログだ。その記事はこちらの「敢えて藤原正彦氏を弁護する」である。
Leiermann氏の藤原正彦擁護をひとことで要約すると、氏の書くものはすべて「寝言ポエム」だから、そもそも真面目に反論するに値しない、となる。「寝言ポエム」という言葉は知らなかったが、はてなダイアリーのキーワード定義によれば、「カフェやモスバーガーの店先によくあるような、店員によって黒板に書かれた、自意識過剰で上滑りした見るも痛々しいひとことポエム。うっかり読むと体感湿度が上昇する」とのことだ。
大阪のお笑いが好きな方に分かりやすく言えば、藤原氏のエッセーはすべて、ひとりボケ、ひとりツッコミなのだから、真面目に反論すること自体、藤原氏の「主張の最も重要な部分」、つまり「自然言語における論理の限界の指摘」をかえって肯定することになるというわけだ。
しかし、Leiermann氏自身がこの記事への「ヒンカク」氏のコメントに対する返答の中で認めているように、「しかし現在、その『床屋政談』レベルの話が真面目に受け止められてしまっているし、藤原氏がそれを敢えて押しとどめようとしないという現実は確かにあります。問題があるとすればそこだと思います(この件に関しては、当該記事を書いた当初は無自覚で、hazama-hazama 氏に指摘されて気付いた次第です)」
つまり、Leiermann氏のように、余裕をもって藤原正彦氏のエッセーを楽しめる知的水準にある「エリート」は非常に限られているのだ。Leiermann氏は、藤原正彦氏のエッセーは「何とも言えぬ諧謔味を醸成し、多くの愛読者を獲得しているわけである」としているが、それは事実に反している。
Leiermann氏は大学院生のようだから、ごく普通の民間企業につとめる僕とは全く違う環境で生活している。大学に残って研究を続ける人は「大学の研究者だって会社員と大して変わらず俗っぽい」とよく口にするが、申し訳ないが、民間企業の研究開発部門以外の部門で働いた経験のない人たちに、自ら「エリート」であることを否定する権利はない。
「エリート」ではない一般の日本人の大半が『国家の品格』を「真面目に」うけとっているの、はれっきとした事実である。
全国紙に掲載される『国家の品格』の広告に登場する読者の感想も、あえて「真面目な」反響にしぼられている。出版社やマスコミは決して『国家の品格』を、藤原氏一流の諧謔としては取り上げない。藤原氏がゲストとしてフジテレビ日曜朝の報道番組に出演したときも、竹村健一氏は『国家の品格』をあくまで「真面目に」紹介しているのである。『国家の品格』を良書と考える一般の日本人の大半は、藤原正彦氏の議論を「真面目に」うけとめているのだ。
僕が『国家の品格』に「真面目に」反論する理由はまさにここにある。一般の日本人は藤原正彦氏のエッセーを「真面目に」うけとめているのだから、それを解毒するには、僕のような「エリート」と一般人の中間にある人種が、藤原正彦氏を「真面目に」やっつけなければならないのだ。
Leiermann氏のような「エリート」に対してあえてキツいことを書くとすれば、「エリート」が藤原氏のエッセーを知的諧謔だと悦に入って「真面目に」とりあわないことは、「エリート」としての知的誠実さを欠いている。
たとえば僕の大学時代の師である高橋哲哉氏のように、飽くことなく「真面目に」靖国問題を議論しようとしている「エリート」と比較すれば、残念ながらLeiermann氏が知的誠実さを欠いていることを指摘せざるをえない。
Leiermann氏の書いているように「実際この本を錦の御旗にして、自説の補強に使っている俗物が社会の上層部に多くいるのは確か」であり、のみならず、この本を時節の補強に使っている俗物は社会の中層部にも下層部にもたくさんいるのだ。
Leiermann氏の擁護は、藤原正彦氏のエッセイストとしてのスタイルの解説にはなっても、エリートの一人として氏が知的誠実さを欠いていることの言い訳にはならない、ということだ。この意味でも、藤原正彦氏の方法論はやはり「卑怯」だと言わざるを得ない。
この記事も真面目すぎる内容で申し訳ない。