梅田望夫氏の「総表現社会の1000万人」のまやかし

梅田望夫著『ウェブ進化論』をグーグルで検索してみると、個人ブログの書評はほぼ全て肯定的評価になっていて非常に不気味だ。『国家の品格』でも同じことが起こっている。
梅田氏は『ウェブ進化論』第四章で、「不特定多数無限大」の人々がネット上の言論に参加することは衆愚を招くという意見に対して、「総表現社会の1000万人」という考え方で反論する。ブログでネット上の言論に参加している「総表現社会の1000万人」は、エリートと大衆の中間層にあたる。
そして、エリート/ブログ発信者/大衆という、この三層構造のウェブ世界では、もはや少数のエリートが大衆を啓蒙するという図式は成り立たないと梅田氏は断言している。ブログ発信者である新・中間層がネット上で意見を交換することで、そこに社会合意が形成されるというのだ。
ここでも梅田氏の視野は非常に狭い。ブログ発信者たちが何をもとにして自分たちの意見を形成しているのかについて、ネットの外の世界にある既存のマスメディアの存在を完全に無視しているのだ。
ブログ発信者たちがブログのネタを拾ってくるのは、ネット上よりもむしろ、そのほとんどが新聞・雑誌・テレビ・映画・書物・音楽など、既存メディアからだ。そのことはブログをいくつか見てみればすぐに分かる。梅田氏はこんな基本的な事実を完全にすっ飛ばしている。
実世界で『ウェブ進化論』という書物を読んだ「総表現社会の1000万人」の1人が、個人のブログで「『ウェブ進化論』はすごい!」とほめたたえる。しかしそういう肯定的な評価に、『ウェブ進化論』が筑摩書房という権威ある出版社から発刊されている事実や、筆者の梅田氏が東京大学大学院卒であるという事実が、影響していないと考える方が不自然である。
一般人はそのような種々の既存の権威を借りられるからこそ、安心して「『ウェブ進化論』はすごい!」と表現できるのであって、表現する場がたまたま友人たちとの雑談の場ではなく、ネット上のブログだったというだけのことだ。
ただし、悪いことにネット上のブログは物理的な距離と無関係に、相互に意見を交換・共有し合えるので、結果として一人の権威主義が時間と場所を超えて、別の人の権威主義を強化し、ネットは権威の増幅装置になる。
1人が「『ウェブ進化論』はすごい!」とブログに書くと、他のブログ発信者は「やっぱりあのベストセラーはすごいんだ」と考え、実際に『ウェブ進化論』を手に取り、「確かにみんながブログに書いているように『ウェブ進化論』はすごい!」となる。
後はこのプロセスが「総表現社会の1000万人」の間で反復されるだけだ。その結果、『ウェブ進化論』や『国家の品格』といった書物が一つのネット社会の偶像として崇め奉られる。ほとんどのブログが『ウェブ進化論』や『国家の品格』を肯定的に評価しており、この「愛と苦悩の日記」のようにこてんぱんに批判しているブログが数えるほどしかないという厳然たる事実を前にして、梅田氏はいったいどうやって反論できるのか。
梅田氏は同じ第四章で、ネット上の総表現社会では、玉石混交の意見のうちの「玉」が自動選別されるが、それはコンテンツの質をめぐる厳しい競争社会が表出するからだと書いている。しかし現実に日本のネット社会で起こっていることはまったく違っている。
現実に日本のネット社会で起こっていることは、『ウェブ進化論』や『国家の品格』などのベストセラー書評ひとつとっても分かるように、本来多種多様であるべき意見が、一つの意見に集約されていく過程である。玉石混交である以前に、すべての玉がだんだんと真っ白に変色していく過程である。
そこには甲子園に進むための地区予選のような厳しい競争社会などない。ウェブ世界の外部にある既存の権威を借りて、安心して権威と同じ意見を反復し、増幅する、いかにも日本人らしい均質的な共同体が表出しているのである。これは事実なのだから否定のしようがない。
かくも事実に反した、ほとんど妄想に近い梅田望夫氏のネット社会観が、ほとんどのブログで肯定的に評価されてしまっているという事態に対して、危機感を抱くのが当然ではないだろうか。少なくとも多種多様な意見があることは良いという立場をとる人なら、梅田氏のネット社会観が単なる妄想であることにも賛成して頂けるだろうし、そんな妄想がネット上のほとんどのブログで肯定的に評価されているのはおかしい、ということにも賛成して頂けるだろう。
そういう意味で、梅田望夫氏のような扇動者はきわめて危険である。自ら多様な意見を認める良識を標榜しながら、自らが偶像となりつつあることに何の危機感も抱けないほど無自覚・無反省だからだ。