『国家の品格』の市場原理主義批判に見る藤原正彦氏の「卑怯」

『国家の品格』第一章では、先日、ほぼ完全に誤っていると指摘した実力主義批判とともに、「市場原理主義」の批判もおこなわれている。これについては日本経済新聞が「核心」というコラムで取り上げ、その時代錯誤を非難していることをご紹介した。
ここでも藤原正彦氏の市場原理主義批判が、どれほど間違っているかを指摘しておきたい。
「何でも市場に任せれば一番効率的であり、国家の介入は出来るだけ少ない方がよい。少しオーバーに言うと、経済に限定すれば国家はいらない。国家は外交、軍事、治安などを行うだけでよいということです」(p.27)
この部分は先日紹介したウォルター・ブロック著、橘玲訳『不道徳教育』が主題として取り上げているリバタリアニズムの正しい要約になっており、問題はない。続きを読んでみよう。
「市場原理主義の前提は、『まずは公平に戦いましょう』です。公平に戦って、勝った者が利益を全部とる。英語で言うと『ウイナー・テイクス・オール』というものです。公平に戦った結果だから全然悪いことはない。勝者が全部取って構わない。こういう論理です。」(p.27)
藤原正彦氏は国語教育の重要性を説いているわりに、非常にいい加減な言葉の使い方をするのだが、ここで藤原氏の言っている「公平」という言葉の意味がよくわからない。「同一の経済的・物理的条件」という意味なら市場原理主義に反するので、おそらく「機会の平等」と理解するのが適切だろう。
ある事業分野への参入をさまたげるものがなく、誰もが必要な資金さえあれば競争に参加できる。それが市場原理主義の前提である。藤原正彦氏は、そうして競争が始まると必ず最後には一つの企業が競争に勝ち、すべての利益をとる、つまり独占状態になると書いているが、これがデタラメというか、藤原氏の単なる被害妄想であることは分かりやすい。
むしろ市場原理主義がちゃんと機能している市場においては、理論上独占は起こらない。マイクロソフトでさえ基本ソフト市場を独占しているわけではない。パーソナルコンピュータ市場という風に市場の範囲をあえて狭くとらえれば、独占と見えるかもしれないが、サーバ機、メインフレーム、携帯電話、家庭電化製品など、基本ソフトの必要なあらゆる機器を広くとらえると、マイクロソフトの独占はまったく成立していない。
基本ソフト市場は、市場原理主義によって新たに企業が参入し、基本ソフトを必要とする機器の種類そのものが広がっていくことで、マイクロソフトのような巨人の独占は徐々に切り崩されていく。マイクロソフトでさえ気づかない隙間市場を目ざとく見つけ出し、そこから儲ける起業家は必ず出てくるし、オープンソースのようにソフトウェアの生産過程そのものを変革しようという新しい発想も新たな市場を開拓する。
一人の人間、一つの企業の発想や技術革新には限界があっても、市場原理主義によって新規参入の機会が確保されている限り、その限界を打ち破る企業が必ず出てくる。それによって独占・寡占が固定化されることはありえない。それが市場原理主義である。
むしろ独占が成り立ちやすいのは、鉄道やユーティリティ(電気・ガス・水道)などの社会基盤事業だが、これらは膨大で長期にわたる設備投資が必要で、そもそも参入機会が非常に制限されているため市場原理主義が機能しない事業である。「ウイナー・テイクス・オール」という状況は、藤原正彦氏の議論とはまったく逆で、市場原理主義が働かない事業領域でこそ起こってしまうのだ。
もう少しこのあたりの議論を、リバタリアニズムの立場から敷衍したWebサイトがある。永井俊哉ドットコム「至上原理としての市場原理」だ。
さらに藤原正彦氏は続けている。
「しかしこの論理は、後ほど詳しく述べる『武士道精神』によれば『卑怯』に抵触します。大きい者が小さい者と戦いやっつけることは卑怯である。強い者が弱い者をやっつけることは卑怯である。武士道精神はそう教えています。しかし市場原理主義ではそんなことに頓着しません。一本道のような論理で、全体を通してしまいます」(p.27~28)
すでにお分かりのように、むしろ市場原理主義は新規参入の機会を確保することで、小さいものが大きい者と互角に戦う機会を与えてくれるのだ。大企業からは生まれないような斬新な発想や、あまりに市場規模が小さく、大企業が手を出しても無意味だと考えるような隙間市場では、中小企業は大企業を打ち負かすことさえできる。
しかし藤原正彦氏が『国家の品格』の中で「卑怯」を取り上げるたびに登場する、「大きい者」「小さい者」「強い者」「弱い者」とは一体どういう意味なのだろうか。
市場原理主義の文脈でふつうに考えると「大きい者」=大企業、「小さい者」=中小企業となるが、藤原正彦氏の武士道精神に忠実にしたがって、仮に大企業が中小企業と戦うことをやめたらどうなるのだろうか。例えば大型スーパーは、地方のさびれた商店街の近くに出店しないとしたらどうなるか。大型スーパーだけでなく、大手小売業者のインターネット通販も規制する必要があるだろう。
そうするとその地方に住む人々の生活の利便性が損なわれ、大型スーパーに比較して割高な商品を購入しなければならなくなる。それがその地方に住む人たちの実質的な生活水準を押し下げるとすると、それは商店街全体の売れ行きに影響する。
他方、出店機会を失われた大型スーパーチェーンは、売上を伸ばすことができないため、従業員の給料を減らすか、解雇するかを迫られる。今度は大型スーパーの従業員が「弱い者」の地位に落ちてしまうのだ。
こんなことくどくど書くまでもなく、経済というのはそこに参加している人たちや企業が交換を通じて、時々刻々と「大きい者」になったり「小さい者」になったり、「強い者」になったり「弱い者」になったり、徐々に変化していく世界である。
そのような変化があるからこそ、「小さい者」や「弱い者」が「大きい者」や「強い者」になる機会が開かれているのであって、それこそが市場原理主義の最大の利点だ。
先日も書いたように、藤原正彦氏の言う「武士道精神」の「卑怯」という概念は、「大きい者」「小さい者」が永久に固定されている世界を考えなければ成り立たない概念なのである。女性は女性として永遠に弱い者である限りにおいて、男が女を殴るのは「卑怯」なのだ。
すると残る問題は、いつのタイミングで「強い者」と「弱い者」を固定するのかということになる。この点で藤原正彦氏の卑怯さが際立ってくる。藤原正彦氏は、自分がベストセラーのエッセイストであり、お茶ノ水大学という権威ある学府の教授であることを自覚している。保守論客としてさまざまなマスメディアでの発言力を持ち、明らかに「強い者」である。
自分自身が「強い者」となっている今、この状態を固定化してしまえば、自分自身は永久に「弱い者」を庇護する立場に立つことができる。愚かな国民たちを高みから見くだし、「強い者」の立場から「武士道精神」という高尚な価値観を説いて、衆愚の蒙昧を開いてやることができる。
結局のところ藤原正彦氏は、自分にとって都合の良い現状を固定化するために、実力主義や市場原理主義など、現状にゆさぶりをかけるような動的な制度を憎悪しているだけなのだ。これが「卑怯」でなくて何だろうか。