ほぼ完全に間違っている『国家の品格』の「実力主義」批判

『国家の品格』第一章では、実力主義、資本主義、市場原理主義など、経済の領域での欧米型の考え方がほぼ全否定されている。しかし藤原正彦氏の議論は、ほぼ完全に間違っている。
第二章では、これらの主義を成り立たせている「論理」そのものは全否定されておらず、「論理」だけではダメだという、単なる相対化にとどまっている。ところが第一章の資本主義、市場原理主義に対する藤原正彦氏の攻撃は、ほとんど感情的ともいえる激しさだ。
「実力主義を本当に徹底し始めたらどうなるでしょうか。例えば同僚は全員ライバルになります。ベテランは新入りにノウハウを絶対に教えなくなる。教えたら最後、自分が追い落とされてしまいます。したがって、いつも敵に囲まれているという非常に不安定な、穏やかな心では生きていけない社会になってしまうのです」(p.25)
この部分など、民間企業で働いた経験のない大学教授らしい、ほほえましいほど素朴な実力主義批判だ。「徒競走で差をつけるのはいけない、みんないっしょにゴールさせましょう」と言い張る小学生教諭と大差ない。
現実には、同期入社どうしのもっとも激烈な実力主義競争にさらされたのは、最近、実力主義がうるさく言われてからの新入社員たちではなく、はるか昔、団塊の世代が新入社員だったころのことだ。何しろ「同期」の人数がケタ違いである。団塊の世代は、大企業であれば何千人という同期入社の中で、出世競争を勝ち抜くために長時間労働を強いられた。
それでも藤原正彦氏が批判するような実力主義の弊害があらわれなかったのは、職位や金銭以外で社員に報いる制度があったからだ。つまり、一生懸命働いていれば、たとえ出世競争で同期に敗れたとしても、一定の満足のいく内容の仕事が与えられる。高橋伸夫氏が『虚妄の成果主義』で書いている未来傾斜式の考え方だ。現時点の金銭ではなく、未来に与えられる仕事の内容で、従業員に報いる、とても日本的なシステムである。
つまり、藤原氏が恐れるように、今さら実力主義を徹底しなくても、日本企業は団塊の世代が新入社員だった時代からすでに実力主義だったのであり、今ごろになって「同僚は全員ライバルになります」と騒ぎ立てるのはまったく筋違いだ。
「ベテランは新入りにノウハウを絶対に教えなくなる」という部分からも、民間企業の人事評価制度が上司と部下のそれぞれに何を期待しているか、藤原正彦氏がまったくの無知であることがよくわかる。
藤原正彦氏は、一つの企業組織の内部での競争のことしか考えていないようだ。しかしすべての民間企業は、企業どうしでも競争している。むしろ企業どうしの競争で優位に立つための手段として、社内で適切な競争が行われるように、人事評価の制度を作っているのだ。
もし本当に「ベテランが新入りにノウハウを絶対に教えなく」なったらどうなるか。たしかにその企業の内部だけを見れば、ベテランは新人に自分たちの地位を奪われる心配をすることなく、安心してその地位に居座れるだろう。ところがそんなことをしてしまうと、次の世代の会社を担う人材がいつまでたっても育たず、他の企業との競争に敗れてしまう。他の企業との競争に敗れれば、ベテランだけでなく、新入りまでが職を失い、路頭に迷うことになる。
だから普通の民間企業では、ベテランたちには新人を育成する職務が与えられており、その職務を怠るとマイナス評価される。「新入りにノウハウを絶対教えない」ようなベテランは、新入りに追い落とされる代わりに、人事評価制度を通じて会社に追い落とされるのだ。
民間企業で働いている会社員なら誰もが知っている、こんな当たり前のことさえ藤原正彦氏は認識していない。にもかかわらず、恥ずかしげもなく、さも実力主義が完全悪であるかのように書いているのだ。さらに続けて藤原正彦氏は書いている。
「世界中の人々が賛成しようと、私は徹底した実力主義には反対です。終身雇用や年功序列を基本とした社会システムを支持します」(p.25)
ここでも藤原正彦氏は大学教授ならではの無知をさらけ出している。終身雇用と年功序列が、どうして実力主義と両立しないと言い切れるのだろうか。むしろ実力主義を徹底しなければ、個々の企業は終身雇用や年功序列を守れない、というのが真実ではないのか。
一度入社した従業員に出来るだけ長く会社に残ってもらおうと考えたとき、一人ひとりの実力にかかわらず全員に同じ給料を支払ったら、何が起こるだろう。給料が実力に見合わないと考える人は転職するだろう。逆に、会社の資金力を無視して、すべての従業員に高すぎる給料を支払い続ければ、会社が存続できなくなり、結果として終身雇用を維持できなくなる。
年功序列についても同じことが言える。年功序列が意味を持つのは、その企業固有のノウハウや暗黙知は、その企業の中で長く働けば働くほど身につくという考え方があるからだ。そして企業固有のノウハウや暗黙知といったものも、れっきとした「実力」の一つである。
そうした「実力」を評価するからこそ、給料の一部分をその企業での勤続年数に比例させる。それが年功序列である。年功序列とは、従業員の実力を正しく評価するための一つの手段なのだ。この観点からの実力主義を徹底させれば、藤原正彦氏の望みどおり、年功序列は強化される。
このように、実力主義があるからこそ、企業の終身雇用や年功序列が可能になるのである。藤原氏の実力主義批判は、ほぼ完全に間違っているということがお分かりいただけるだろう。