差別の固定を正当化する藤原正彦氏の「惻隠の情」(前編)

『国家の品格』にはところどころ藤原正彦氏の「品位」を疑いたくなる箇所がある。それは、藤原正彦氏が私的な傍白と、公的な議論を使いわけるという「卑怯」な手をつかっている箇所だ。その多くは、藤原正彦氏が自らの女性観をもらしている箇所である。
「もっとも、いちばん身近で見ている女房に言わせると、私の話の半分は誤りと勘違い、残りの半分は誇張と大風呂敷とのことです。私はまったくそうは思いませんが、そういう意見のあることはあらかじめお伝えしておきます」(p.12)
もちろん著者自身は、ユーモアのつもりで書いているのだろう。しかし「女房」という私的な部分をもち出すことで、国家の品格を論じている公的な側面からの逃げ道をつくっている。「女房」が語っていることを通じて、自己をおもしろおかしく戯画化し、真面目な反論をさけようとするその方法は、かなり「卑怯」だ。
第三章で藤原正彦氏は民主主義をしりぞけている。その理由は次のとおりだ。
「過去はもちろん、現在においても未来においても、国民は常に、世界中で未熟である。したがって、『成熟した判断が出来る国民』という民主主義の暗黙の前提は、永遠に成り立たない」(p.83)
そして「国民は永遠に成熟しない。放っておくと、民主主義すなわち主権在民が戦争を起こす。国を潰し、ことによったら地球まで潰してしまう。それを防ぐために必要なものが、実はエリートなんです」(p.83)ということで、藤原正彦氏はエリート養成の必要性をうったえる。
この部分、よくよく読んでみるまでもなく、藤原正彦氏は正面から読者を罵倒している。「お前らは永遠に未熟な凡人だ」という具合に。本書の内容を支持している読者の方々は、みな自分のことを「エリート」だと考えているのだろうか。だとすれば藤原氏の書いていることは当たっていることになる。「国民は永遠に成熟しない」のだ。
そして問題の女性観をもらす箇所がくる。
「イギリスの政治家には真のエリートが多いので、賄賂や汚職の話はほとんど聞きません。国民のために命をささげるような者は、国民を欺くようなことはしないのです。女性問題のスキャンダルは時々あります。こちらはどんな教育をしてもなくなりません」(p.87)
藤原正彦氏は本書だけでなく、他の著書でも教育の重要性をくりかえし説いている。ところが、女性問題のスキャンダルだけは、どんなエリート教育をしてもなくならないのだそうだ。女性との関係は男性にとっては、「国民のために命をささげるような」仕事の世界とはまったく別の世界ということなのだろう。
女性関係をふくむ私的な領域と、仕事に命をささげる公的な領域、その二つを藤原正彦氏ははっきり分けている。そして、公的な領域の問題には真剣に、それこそ「命をささげるように」取り組むが、「女性問題」のような私的な領域の問題には、いともかんたんにさじを投げている。
「女房」を引き合いに出している部分にも同じことが言える。「女房」との関係は藤原正彦氏にとって私的な領域であり、「女房」の意見に真剣にとりあう価値はない。話のはじめに読者の心をつかむユーモアとして利用する価値しかない。
国民のために命をささげるエリートも、私的な領域で女性問題を起こすことは許される。だとすると、藤原正彦氏が「国民」と言うとき、そこに女性は含まれていないと考える必要がありそうだ。もし女性が国民の一人であるなら、「国民を欺くようなことはしない」という「真のエリート」の定義と矛盾してしまう。
女性は国民ではないから、「女房」を欺いて他の女性と「スキャンダル」を起こしても「真のエリート」の名に傷はつかない。女性に代表される私的な領域は「真のエリート」にとっての逃げ場であり、藤原正彦氏の議論にとっても逃げ場になっている。
このように藤原正彦氏は、私的な領域(女性との関係)と公的な領域(男としての仕事)とで、二つの価値基準を使いわけている。公的な領域では許されないことも、私的な領域では許される。この二重規範は、藤原正彦氏の実に「卑怯」な議論の進め方である。