論理を批判しながら論理を駆使する藤原正彦氏の「卑怯」

『国家の品格』の「はじめに」で、著者の藤原正彦氏は執筆動機にふれている。藤原正彦氏は米国の大学で3年間教鞭をとって帰国した後も、日本の大学の教授会で米国流の合理主義をふりかざした。「数年間はアメリカかぶれだったのですが、次第に論理だけでは物事は片付かない、論理的に正しいということはそほどのことでもない、と考えるようになりました」(p.4)。
これは「論理」(=欧米の合理主義)そのものが悪いのではなく、日本という環境と「論理」の相性が悪かった、というだけの話だ。ところが驚くべきことに藤原正彦氏はこの体験から「論理」そのものに欠陥があるのだという、完全に間違った結論を導き出す。
そもそも藤原正彦氏を本書の執筆に駆り立てているのは、「いま日本は荒廃しているとよく言われますが、世界中の先進国はみな似たような状況です」という現状認識である。今の世の中はおかしくなっている。おかしくなっているからには何か原因があるはずだ。その原因は何だろうか。そうだ、「論理」偏重の考え方がその原因だ。
本書の前半では、藤原正彦氏は「論理」を全面的に否定しているわけではない。「論理とか合理とかいうものが、非常に重要なのは言うまでもありません。しかし、人間というのはそれだけではやっていけない」(p.20)そして「論理」を補完するものとして「情緒と形」というものを持ち出している。
ところが巻末に近づくにつれて、いつの間にか、「論理」とその産物である「自由」や「平等」といった思想よりも、「論理」を補完する「情緒と形」の方が優れているということになってしまう。
「現代を荒廃に追い込んでいる自由と平等より、日本人固有のこれら情緒や形の方が上位にあることを、日本は世界に示さねばなりません。自由、平等、市場原理主義といった教義は、共産主義がそうであったように、いかに立派そうな論理で着飾っていても、人間を本当に幸せにすることはできないからです」(p.185)
であれば、いっそのこと「論理」など捨てて、「情緒と形」だけで生きていったらどうだろうか。本当に藤原正彦氏の主張するように、「論理」そのものには欠陥があるが、「情緒と形」そのものには欠陥がないのだとしたら、欠陥のないものを原理にして生きる方が良いに決まっている。
しかも藤原正彦氏によれば「情緒と形」を原理として生きることができるのは、世界中で唯一「日本人」だけらしいのだ。したがって「時間はかかりますが、この世界を本格的に救えるのは、日本人しかいないと私は思うのです」(p.191)という言葉で本書は締めくくられることになる。
最初は、米国流の「論理」が日本の環境と相性が悪かっただけの話が、最終的には「情緒と形」を体現できる日本人しか世界を荒廃から救えないという、ものすごい話になってしまっている。最初は「論理」を相対化するだけだった議論が、いつの間にか日本的「情緒と形」至上主義にすりかわっている。
ところで「わが民族しか世界を救うことができない」という考え方を、選民思想という。ナチス・ドイツが「アーリア人こそ世界でもっとも優秀な民族である」と主張していたのと、藤原正彦氏の『国家の品格』の主張に大きな違いはない。
藤原正彦氏自身、「論理」に欠陥があると言っているのだから、藤原正彦氏の「論理」に欠陥があるのも無理はない。というより、藤原氏の議論は「論理」にさえなっていない。もちろん藤原氏はわざと非論理的な文章を書いているに違いない。いったん「論理と合理」を否定してしまえば、後は何をどうこじつけようが構わないというわけだ。
ところが藤原正彦氏はたしかに本書の読者を説得しようとしている。いったいどういう方法で藤原氏は読者である僕らを納得させようとしているのだろうか。世界を本格的に救えるのが日本人しかいないということを、どうやって藤原正彦氏は説得しようとしているのか。
藤原氏が頼りにしているのは、やっぱり「論理」の力なのではないか。たしかに『国家の品格』はいたるところで論理的な破綻をきたしている。それでもさまざまな事例や引用を駆使して、読者を納得させようとしている。
藤原正彦氏が「論理」に欠陥があると本当に信じているなら、なぜ190ページ以上もかけて「情緒と形」の「論理」に対する優位を説得する必要があるだろうか。最初にひとことだけ自分の主張を書いて、それで終わりにすればよいのではないか。
一つのテーマについて藤原正彦氏がこれだけの紙面を割いているのは、そして藤原氏がこの『国家と品格』だけではなく他にも多数の書物を書いているのは、他人の意見を変えるには(少なくとも「大人」の意見を変えるには)、「論理」がなくてはならないと分かっているからではないのか。
僕ら藤原正彦氏の読者は、途方にくれてしまう。藤原正彦氏は「要するに、重要なことの多くが、論理では説明出来ません」(p.49)と書いているのに、僕らにむかって「情緒と形」が「論理」よりも優れているということを、延々と「論理」で説明しようとしているように見える。決して頭ごなしに「ならぬことはならぬものです」(p.48)などと書き捨てたりせず、根気よく長い「論理」で僕らを説得しようとしている。
『国家と品格』の読者は、「論理」の限界を声高に主張する藤原正彦氏と、大いに「論理」を頼りにして僕らを説得しようとしている藤原正彦氏と、どちらの藤原正彦氏を信じればいいのだろうか。
この疑問に対して、藤原正彦氏はきっとこう答えるだろう。「そういうのが『論理』偏重だと言っているのだよ」。確かに。一方で「論理」を否定しておきながら、他方で「論理」を駆使するという方法をとれば、藤原正彦氏は何でも言いたい放題、書きたい放題である。誰がどのような方法で反論して来ようが、藤原正彦氏は「だからお前は『情緒と形』ということが分かっていないのだ」というひとことで、その反論をかんたんにしりぞけることができる。
このような藤原正彦氏のやり方を「卑怯」と言わずして、何と言えばいいのだろうか。