メルキオール『現代フランス思想とは何か』

■J.G.メルキオール『現代フランス思想とは何か―レヴィ=ストロース、バルト、デリダへの批判的アプローチ』を読み終えた。メルキオールのような啓蒙主義の考え方の人は、考えるという行為の生産性を重要視するようだ。つまりある書物を読んだとき、読者がどれくらい賢くなるか、それがその書物に書かれていることの価値を決めるということだ。
そんなメルキオールのような人が、デリダを「思想の文学化だ」と何度も繰り返し厳しく批判するのは理解できる。また、文学作品を読むとき、テキストの外部、たとえば著者の生い立ちや、その書物が書かれた時代背景といったものすべてを排除するポスト構造主義のテキスト分析の考え方は、文学作品の読みを浅薄なものにしてしまうという批判も、啓蒙主義らしい批判だ。
またメルキオールは、構造主義がsyntagmを重視し、paradigmをほぼ無視することで、歴史を否定するか無視するかのどちらかで、ポスト構造主義が歴史を単なる遅延、つまり決定不可能性に還元してしまっていると批判する。これも啓蒙主義という立場を考えれば、納得の批判である。
一人ひとりの人間は毎日少しずつ成長し、賢くなってしかるべきだし(この言い方、どこかで読んだと思ったら、親サイトで徹底批判したアンソニー・ロビンズ『夢と幸せをつかむ!成功への9ステップ』ではないか。啓蒙主義がプラグマティズムと親和性があるのは当然かもしれないが)、人類総体としても少しずつ賢くなってしかるべきだ。
しかし後期デリダの政治的な発言をメルキオールはどう考えるのだろうか。たしかにデリダの思想をサブカルチャー批判など、言語学や記号論と親和性の高い分野に適用する限りは、メルキオールの啓蒙主義からの批判は有効かもしれないが、高橋哲哉氏のようにデリダ研究者でありながら、もっとも先鋭的な歴史問題に取り組んでいる事例は、どのような批判を受けるのだろうか。残念ながら一介の会社員である僕には、この興味深いデリダ研究テーマに取り組む時間がない。