「生命は誰のものか」という問いと尊厳死

■富山県射水市の市民病院で、男性外科医が延命治療中の患者の人工呼吸器を、家族同意のもと外して死亡させていたというニュースがあった。中国新聞の社説から引用すると、1995年横浜地裁の、延命治療の中止による消極的安楽死が許される条件は、(1)耐え難い肉体的苦痛がある(2)死期が迫っている(3)苦痛を除去、緩和する他の手段がない(4)本人の意思表示があるの4つがすべてそろっていることだそうだ。
(1)について。肉体的苦痛が「耐え難い」かどうかは本人にしか判断できない。(2)について。いくら医療が発達しても死期を正確に予測することは難しいだろうし、末期がん患者のドキュメンタリー番組などを観ていると、医師の予測は概して保守的である。つまり、患者やその家族に虚しい期待を抱かせないように、余命について短めに見積る傾向があることがわかる。したがって医師の見積もった余命にもとづいて、安楽死を許可する基準とするのは、患者本人の判断や意思表示に比較すると、危険な恣意が入り込む可能性が高い。
(3)について。患者本人が苦痛を苦痛と感じられなくなっている場合にはどうすればいいのか。(4)について。今回の富山県の市民病院の事例のように、患者本人がもはや意思表示できない状態にある場合にはどうすればいいのか。
横浜地裁の提示した暫定的な消極的安楽死の基準は、意識がはっきりしていて、苦痛にのたうちまわっているような患者を想定している。脳死状態でも心臓を動かし続けることができたり、麻薬で苦痛を和らげることができたりといった医療の「進歩」で、このような患者はむしろ少数派ではないかと想像する。
では事前に一人ひとりが延命治療中止の条件を宣言できることを法制化したらどうかという議論がでてくる。ところがこれに対しては、テレビで「尊厳死」に反対する市民団体の代表がこんなことを話していた。ひとたび「尊厳死」を合法化してしまうと、社会的弱者は無言の圧力によって「自分など社会の役に立たないのだから死んだほうがいい」と考える傾向が生じるのを避けられない。だから「尊厳死」に反対する、と。
この反論は、尊厳死の根拠を主に本人の意思表示に置こうという尊厳死擁護派に対する深刻な反論である。個人の生命は本人の意思によってしか左右できない、とまでは言わないまでも、個人の生命を左右するもっとも重要な要素は本人の意思である、という社会通念は確かに存在する。その証拠に「個人の生命は個人だけのものではない」と書いてみると、やや宗教じみた響きになり、僕らの日常生活を支えている法制度の合理主義にそぐわない。
死刑という刑罰が最も重い刑罰たりうるのも、逆説的ではあるが、個人の生命をどうするかは本人の自由、というところにその根拠がある。つまり、本来は自分を生かすも殺すも本人の意思なのに、その意思を国家が暴力的に奪ってしまうことによって初めて、死刑は「極刑」たりえているということだ。
そのような意味で「尊厳死」反対派の意見は、「個人の命を本人の意思にゆだねるのは危険である」という意見に立っていて、とても深刻な反論だ。「尊厳死」に反対する人たちは当然、自殺は罪だと考えるだろう。個々人には自分の命を左右する権利はないのだから。
多くの新聞がいまだに「本人の意思確認があったか」を論点にしているが、本人の意思確認ができない場合であっても「尊厳死」を認めるかどうかまで踏み込まなければ、この議論は不十分だ。一歩踏み込んだ神戸新聞の社説であっても、「人間らしい終末期」という議論の立て方では「個人の命は個人のもの」という倫理観の域を出ていない。
マスコミも含めた世論全体がこの域を出ない限り、国会で尊厳死の許可条件が法制化されるのは時間の問題だろう。そこからカート・ヴォネガットの小説に登場する「自殺パーラー」までの距離は、そう遠くないかもしれない。