富野喜幸『機動戦士ガンダムⅢ めぐりあい宇宙編』

■富野喜幸『機動戦士ガンダムⅢ めぐりあい宇宙編』(1982年)を観た。これでファースト・ガンダム劇場版三部作を観終え、ようやく一連のガンダムシリーズを語るための出発点に立てた。本作の劇場公開は公式Webサイトによれば1982/03/13。ちょうど24年前の時間にようやく追いついた。
『機動戦士ガンダムSEED』総集編DVDの3枚目がどれだけ多くをファーストの『機動戦士ガンダム』に負っているかも『めぐりあい宇宙(そら)編』を観て初めて分かった。「宇宙」と書いて「そら」と読ませるという引用の下らなさには苦笑するしかないが、ソーラ・レイと呼ばれる巨大砲や、ララァの搭乗するエルメスから発射される無数のビットがガンダムを四方八方から狙撃するシーケンス、両腕、片脚を失ったガンダムなど。
戦闘モノのアニメーションはどれも分かりやすい二元論を共通する構造として持っているが、ファーストと『SEED』の共通点は普通の人間/特殊能力をもつ人間という二元論だ。特殊能力をもつ人間はファーストでは「ニュータイプ」、『SEED』では「コーディネイター」と呼ばれるが、前者は人間が環境に適応した結果であるという一種の「自然的」な進化論なのに対して、後者は遺伝子操作によるものであるという明確な「人為的」原因が与えられている。
ファーストと『SEED』で決定的に異なるのは善悪の二元論のもつ構造だろう。『SEED』では普通の人間/特殊能力をもつ人間という二元論が善悪の二元論に重なっていてより分かりやすい。ファーストでは物語のものもがジオンと地球軍の停戦で終わり、「敗北」するのがジオン軍の一部分である。しかもララァという「ニュータイプ」は両軍を架橋する役割さえ果たす。
『SEED』で一見ララァと同じ位置にある、やはり特殊能力をもつ「コーディネイター」ラクス・クラインは、『SEED』におけるジオン軍であるザフト軍に明確に反旗をひるがえすことで、普通の人間/特殊能力をもつ人間の二元論が善悪の二元論にぴったり重なる構造を象徴する。その結果『SEED』は「戦争を終わらせるためには悪を滅ぼすしかない」という非常に単純な勧善懲悪の物語になってしまっている。物語が両軍殲滅の状態で虚無感とともに終わるのもそのためだ。
対してファーストは「ニュータイプ」がむしろ人類の未来を象徴し、地球連邦軍もジオン軍も人類の未来のために戦争をしているのではないかという可能性を残している。その結果として物語は休戦協定で終わり、未来への希望が残されている。
どちらにしても単なるロボット戦闘モノなのだが、より複雑な二元論の構造をもつファーストが単純に「優れている」と言えないのは、戦争が結局は善悪二元論の上にしか存立しないことを僕らがよく知っているからだろう。自由のための戦争が純粋な善であると信じている国が、僕らがよく知っている同盟国だからだ。あの国の世界観はどちらかと言えば『SEED』の単純な勧善懲悪の世界に近く、僕らにとってはリアリティーがある。
ララァの声を聴いた瞬間に、藩恵子だ、と分かった僕はさすが『1000年女王』ファン。ところがセイラ・マス役の声優・井上遥さんは3年前に癌で亡くなっているらしい。