『王立宇宙軍 オネアミスの翼』

■さて今回は『王立宇宙軍 オネアミスの翼』(1987年)についてである。ガイナックスの公式Webサイトによれば『新世紀エヴァンゲリオン』を制作したガイナックスが初めて制作し、バンダイが映像事業に進出した最初の作品とのことだ。Wikiぺディアの『王立宇宙軍 オネアミスの翼』の項によれば、そもそもこの『王立宇宙軍 オネアミスの翼』を作るためにガイナックスが結成されたということのようである。
アニメーションに興味のない方に前もって書いておくと、この作品は題名だけを読むとよくありがちな「宇宙戦争もの」で、ガンダムよろしく近未来の戦闘兵器がたくさん登場してドンパチ戦争をやるのだろうと勘違いされるかもしれない。
しかしその先入観はまったくの間違いで、実際には非常に地味で淡々とした映画である。かえってハリウッドの『マトリックス』を代表とするSFXものの派手なアクションが連続するような映画が好きな人にとっては、かなり退屈な映画かもしれない。どちらかと言えば日本の映画監督で言えば市川準や相米慎二に近く、とても洗練されたフレーミングとカット割りになっている。決して井筒監督のような情熱的な演出にはなっていない、かなり精神的に「大人」な人たち向けのアニメーションである。
ただ、たしかにガンダムなどの「戦闘もの」好きが思わずうなってしまうような、スピード感あふれる空中戦闘シーンはラスト近くに用意されている。この作品が作られた当時、作画監督の庵野秀明(『新世紀エヴァンゲリオン』や『トップをねらえ!』の監督)はまだ20代だったわけだが、そのアニメーターとしての天才的な才能が存分に生かされている。
映画でいう「引きの絵」、つまり広大な風景の静止画を見せるカットは、一つひとつがまるで写真のように写実的に丁寧に描かれている。また、アニメーションにおける特殊効果的な表現も随所に見ることができて、絵の美しさに見惚れるだけでもこの『王立宇宙軍 オネアミスの翼』はじゅうぶん観る価値がある。しかも、さほど劇中では目立たないが、音楽監督が坂本龍一というところもぜいたくなアニメーションである。
この作品はそういうわけで、アニメーションというよりは一本の「映画」と呼びたくなる。宮崎駿作品に匹敵する、というよりむしろ、アニメーションとしての作画品質の高さは宮崎作品を軽々と超えている。
ただし本作品が商業的に大失敗に終わった理由もよくわかる。その最大の理由は脚本にある。もちろん僕は本作品の脚本はこのままの状態が最良だと考える。商業的な成功をねらうならいくらでも別の書き方ができたはずだが、この作品を作った人々はあえてあざとく商業的な成功をねらうような内容を避けたに違いない。
商業的に成功させようと思えば、たとえば主人公の宇宙飛行士と、熱心な信者である少女との出会いと別れをロマンティックに書き直し、恋愛映画として盛り上げることはいくらでもできる。主人公を狙う暗殺者が、あれほど間抜けな暗殺者一人しかいないというのも、書き直せばいくらでもハラハラドキドキのアクション映画にできる。
Wikipediaによれば、宮崎駿はこの作品について「主人公ら以外の人物の苦労や成功を描いていないことを批判している」らしいが、本当であれば実に宮崎氏らしいコメントだ。しかしこれは小津安二郎の映画に「人物の苦労を描け」と言っているのと同じくらいナンセンスなコメントである。『王立宇宙軍 オネアミスの翼』は、宮崎駿が言っているような脚本にもできたところを、あえて抑制の効いた、野田高梧脚本のような洗練を狙っている。本当に宮崎駿は何も分かっていない。というより思い込みが激しい。
脚本以外にも、たとえば主人公の声優を森本レオではなく、もっと声にメリハリと表情のある声優を使うこともできる。個々のカットのフレーミングにしても、もっと「カメラを動かす」ことができる。できることは何でもやるという浅ましさは『王立宇宙軍 オネアミスの翼』にない。
極限までストイックでありながら、表現技法は画面からあふれ出るほどリッチである。そのふれ幅こそが、『トップをねらえ!』のような極限までにあざといパロディーも可能にしているのだし、『新世紀エヴァンゲリオン』のようなほとんど破綻しかかった作品をぎりぎりのところで作品として成立させることも可能にしている。宮崎駿から見たときのGAINAXの「恐るべき子供」としての資質は、全共闘世代的な目的論から自由なこの振幅ではないだろうか。