少子化問題の意図的な盲点

■少子化対策というとお決まりのように「女性が結婚や育児をしても働きつづけられる環境整備が必要」と言われるが、これを見てもわかるように、マスコミでは相変わらず少子化問題が女性だけの問題であるかのようだ。
なお最初に断っておくと、僕自身は国家的な施策として多産化を促進することには、特に日本の場合、社会全体を保守化に向かわせる危険がともなうので、少子化をことさら問題視する考え方自体に反対だ。
例えばフランスの出生率は先進国中では極めて高い水準にあるが、それはフランス社会全体の保守化の影響である。現代フランスでは、子供を産まない女性に対する風当たりがとても強くなっているらしいのだ。『第二の性』のシモーヌ・ド・ボーヴォワールを生んだ国とは思えないほど、フランスは女性が子供をもつということについて保守化しているようだ(講談社『クーリエ・ジャポン』008号の特集「世界の小しか事情『産まない』という選択」を参照のこと)。
おそらく少子化について「万策尽きた」感になった暁には、日本政府も電通や博報堂を巻きこんで同じような保守化キャンペーンを大々的に張ることになるだろう。子供をもつ母としての女性の行き方を美化し、子供を持たないことが罪であるかのようなキャンペーンを、テレビドラマや映画を通じて行うようになるに違いない。
したがって少子化を国家的な問題として危機感をあおるマスコミの論調そのものが危険だというのが僕の意見だ。
しかし、仮に少子化が解決しなければならない「問題」であると仮定した場合、世間の人々が少子化問題=女性の問題と短絡しているのは愚かである。具体的な例で考えてみればわかる。育児休暇をとった女性の穴を埋めるために、男性社員に長時間労働を強いるとすれば、今度はその男性が結婚や子供を作るチャンスを失うことになる。現状、企業がとっている「女性にとって働きやすい職場」というのは、この程度の努力に過ぎず、まったく少子化問題の対策にならない。
少子化問題は女性が子供を産みにくい、育てにくいことだけが原因ではない。男性が結婚しにくい、子供を作りにくい、育児に協力しにくいことの方がむしろ問題なのだ。小さな子供の育児コストが高くなることで、男性会社員が所得の低い二十代で結婚にふみきることを妨げている。たとえ結婚できたとしても、恒常的な残業や強いストレスは、長期的に男性の生殖能力を弱めたり、生殖の機会を奪う。たとえ子供ができたとしても、一般的な企業が男性に育児協力をゆるすような雰囲気でないことは言うまでもない。
少子化問題では、女性が子供を産みにくい状況と、男性が子供を作りにくい状況が表裏一体となっている。ところが少子化問題を取り上げるマスコミは、つねに「男性の問題」が存在しないかのように語る。この「男性が存在しないかのように語る」ということこそ、少子化問題の本質的な盲点、しかも意図せずして盲点になっているのではなく、語り手がほとんどの場合男性であるということによって、意図的に盲点にされているのである。
少子化問題について書いたり語ったりする男性は、それが自分の私生活には無関係の問題であるかのように語る。この状況がつづくかぎり、少子化問題が本気で「問題」ととらえられることはない。そういう意味では僕個人にとっては安心である。所詮、少子化問題を喧伝するマスコミの男性たちは「口先だけ」であって、本気でそれを「問題視」していないからだ。少子化問題をまるで問題であるかのように取り上げることが、彼らにとって一種の免罪符となっているのである。