小川洋子『博士の愛した数式』

■『グラマトロジーについて(下)』を読み終えた後、Amazonで注文した『エクリチュールと差異(上)』が届くまで数日間があったので、携帯電話で電子書店パピレスから小川洋子『博士の愛した数式』をダウンロードして読んだ。小川洋子作品は一作品は読んだ覚えがあり、読んだとすれば芥川賞作『妊娠カレンダー』に違いないのだが、内容がまったく思いださせないところからすると、きっと読んでいないのだろう。
映画化された作品だが、作品そのものが非常に映画的である。最近の小説は高橋源一郎のように言葉そのものの可能性を、まるで現代詩にように極限にまで追求しているのでない限り、どれも映画的になるのは仕方ないのかもしれない。『博士の愛した数式』は基本的に語り手である家政婦の回想形式で、映画的にはカットバックと省略法の集積でかたち作られている。物語の終わりに近づくほど、省略法が飛び越える月日の幅が長くなっていくというのも、微笑ましいほどお決まりの手法である。
過ぎ去った時間は、過ぎ去っているという事実だけによってすでに美化され、固定化されている。その上、この作品の登場人物は誰もが愛すべき善良な市民たちだ。そこに「記憶が80分しかつづかない天才数学者」が登場すれば、道具立てとしては完璧で、そこに小川氏の安定した文章の才能が合わされば駄作にならないわけがない。
そういう意味でこの小説はとても退屈な小説である。読む前から、どんな種類の感動が待ち受けているのか容易に想像できてしまう。もちろんこの種類の作品は、安心して感動できることを期待して読まれる作品なので、これはこれでいいに違いない。
ただ、博士が熱狂的な阪神タイガースファンであるという設定はなくても、十分作品として成立しただろう。また、プラトン的イデアの美しさに魅せられている博士は、80分しかつづかない記憶を補うためのメモを、体中にぶら下げることはしないだろう。少なくともメモ用紙を一冊の束にしてポケットに入れるくらいのことはするはずだ。そして、数字に対して偏執狂的なこだわりをみせる博士が、子供の無邪気な無神経さに徹底して寛容であるというのも、博士を神化しすぎている印象がある。
80分しかつづかない記憶という一点を除いたあらゆる点で、その極端な謙虚さや自己卑下も含めて博士という登場人物があまりに理想化されすぎている。そうした点が、僕のようにひねくれた読者にとっては物足りない。
僕なら次のように書きたくなるだろう。博士の記憶の持続時間が80分から短くなっていけばいくほど、理念的な数の世界への執着を強め、日常のすべてを数学的な法則によって語るようになる。それによって、周囲の人々とふつうの会話を成り立たせるためのありふれた言葉、「こんにちは」とか「さようなら」とかいった言葉を失っていき、ますます孤独へと落ちこんでいく。しかし成長して教師になるべく数学を学んでいく少年ルートだけが、博士と数学の言葉で対話するすべを少しずつ身につけ、博士が周囲の人々に祝福されながらこの世を去るよすがとなる。こんなふうに書けば、数学とは何か、言葉とは何か、数学が僕らの世界にとってどのような存在価値をもつのかについて、もっと考えさせる作品になるに違いない。