ナターシャ・サン=ピエールNatasha St-Pier経歴(2001/05/23)『Cine Tele Revue』誌インタビュー記事

■(ナターシャ・サン=ピエールNatasha St-Pier経歴つづき)
参照元:Le site de référence sur NATASHA ST-PIER
―2001/05/23 ナターシャ・サン=ピエール(Natasha St-Pier)関連記事。
『Ciné Télé Revue』インタビュー記事
『私は20歳だけれども、20歳が人生で最も美しい年だなどと誰にも言わせない』。これは哲学者でも作家でもあったポール・ニザン(1905~1940)の引用だが、ナターシャ・サン=ピエールには全く当てはまらない。満20歳のナターシャは、話題の絶えないセカンド・アルバム(ただし欧州では最初のアルバム)『À chacun son histoire』を発売したばかりだ。彼女の物語(histoire)はカナダ北東部の英語圏にあるヌーボー・ブランシュヴィックに始まる。ナターシャは幼い頃から抑えられないほど歌に引かれていることに気付いていた。ケベック州では15歳の頃から歌手として有名になり、ミュージカル『ノートルダム・ド・パリ』では若くしてすでにジュリー・ゼナッティの代役を演じた。それからフルール・ド・リ役という肩書きを得て、英語版アルバムの録音に参加。今ではソロシンガーとして活躍している。ついに、と言ってもこれが最後ではないが、先日12日土曜日、ユーロビジョン・コンクールでフランス全土が彼女を後押しし、『Je n’ai que mon âme』という曲をフランス代表として歌った。つい数年前まで生物学者になることを夢見ていた、この未来のスターとのインタビューである。
カナダの輸出産業の中では、女性歌手はメープルシロップと並ぶシェアを占めているとか。あなたも流れ作業で生産されたんですよね。
(笑)違うわ、私の知る限りではね!実際には波があるんじゃないかしら。1970年代には、たくさんのケベック人がヨーロッパで有名になったし。ロベール・シャルルボワ、ディアンヌ・テル、ファビエンヌ・ティボー、ディアンヌ・デュフレーヌ...。今また波が来たのよ!
一定の知名度の他に、あなたが『ノートルダム・ド・パリ』の経験から得たものはなんですか。
実際はフランス、ケベック、英国すべての『ノートルダム・ド・パリ』公演に参加しているの。だからものすごくたくさんのことを学んだわ。リシャール・コキアントやリュック・プラマンドン、演出家のジル・マウーとの出会いだけじゃなくて、それぞれに違っていた3か国の公演での共演者たちからもね。共演者のほとんどが年上の人たちだったから、なおさら学ぶところが多かったわ。
正確にはどうやって出演者に選ばれたんですか。
(やや興奮して)あらら。ほんと、誰も私を信じてくれないんだから!1999年にケベック州公演のためにリュック・プラマンドンが開いたオーディションに合格したの。ケベック州での公演はフランス公演の後に予定されていて、私はフルール・ド・リ役をもらったというわけ。ところが、私が代役をしたジュリー・ゼナッティはケベックを去って急遽フランスに戻らなければならなくなったの。突然、舞台にフルール・ド・リがいないってことになってしまった。そこである日の正午、私が呼ばれて、『ノートルダム・ド・パリ』公演に予定よりも早く出演準備をして欲しいと言われたの。私が「はい。で、いつからですか」ってたずねたら、「今晩から」ですって!私はモントリオールのサン・ドニ劇場に駆けつけて、パトリック・フィオリ、ジュリー・ゼナッティとその日の午後、役の練習をしたのよ!歌は覚えていたの(フルール・ド・リは劇中で3曲、途中から歌に入るものも含めると4曲しか歌わない)。だって、オーディションに合格したばかりだから。でもそれだけ。何の準備もなかったから、私の身長に合った衣装さえなかったのよ。その晩8時に舞台は始まって、8時半には舞台に上がっていた。あれは人生でいちばん緊張した舞台と言ってもいいわ。
午後の練習だけで十分でしたか。
そうするしかなかったの!舞台上での立ち位置の移動とか、役についてのすべてのことを午後だけで覚えたの。その後2年間、ずっとその役を演じ続けているわ。時が経つにつれて、確実にフルール・ド・リの演じ方は少しずつ変わってきている。
その舞台では間違えませんでしたか。
ええ。すべてがうまく行ったわ。きっとビギナーズ・ラックってやつね。最初の公演が完璧だってことは、たまにあるわね。二回目はほどほどで、三回目は安定してきて。でもあのときの二回目と三回目がどうだったかはよく覚えてないけど...。
英語版でもその役を演じることに問題はありませんでしたか。
逆にうれしかったわ。だって英語で歌うのは好きだから。それから、おかげでジル・マウーと仕事をすることができたし、舞台に変化をもたらすこともできたし、自分の役柄を見直すこともできたし...。同じ役を400回やったとしても、常にその役にまで自分を高める必要があるの。それがミュージカルでいちばん難しいところね。実際、同じ役をやっていると疲れてしまうし、自分の体をいたわろうとしてしまうし。でもそうすることはできないの。劇場の観客には、初めてその役を演じたときの驚きを伝えなければいけないから。だからものすごく集中力が必要だし、エネルギーも必要ね...。
米国版の『ノートルダム・ド・パリ』を見たことはありますか。
いいえ。私が見損ねたのはラス・ヴェガス公演ね。ちょうどそのとき私はケベックと英国にいたから。どちらにしてもそれほど興味を引いたかどうか。歌手としては、私はヨーロッパとカナダを目指して始めたの。たぶん米国にも行くかもしれない。国際的なキャリアを積みたいから。でも、今のところその必要はないと思う。それに、ギャンブルの街で上演される『ノートルダム』はほぼ半分にカットされているし、最初のバージョンを400回以上演じた後にそこへ行っても、あまり幸福じゃないでしょうね。
15歳の頃にすでに『Emergence』を録音しているので、『À chacun son histoire』はセカンド・アルバムですよね。『Emergence』のときは批評家や一般の人たちはどんなふうに受け入れてくれましたか。
とっても、とっても良かったわ。ラジオでもたくさん成功したし、それにモントリオールではあのアルバムの曲をいろんなラジオ局で何度も耳にしたし。売上も良かったわ。ただ、当時私がいっしょに仕事をしていた人たちは、私とは違った見方をしていたみたい。だからスタッフを変えたいと思って、5年契約でまだ3年間契約が残っていたんだけれど、裁判に一年半かかってしまった。その期間は歌うことができなかったから、すごく長く感じられたけど、改めて本当に私は歌手になりたいんだって分かったの。
今のようにヨーロッパで活躍したいと思ったのは何がきっかけですか。
幼い頃の夢がかなった、というわけではないの。だってこんな日がいつか来るなんて夢にも思っていなかったから。でもそれが現実になってとってもうれしいわ。これは一つのチャンスだと思うし、きっとこのチャンスをつかんでみせる...。
ケベック出身の女性歌手が何人もヨーロッパで成功しているので、むしろ良い前兆だと思いませんか。
たしかに私も夢が持てるから!今のところケベック出身の女性歌手はヨーロッパで大活躍しているし。でもそれぞれに違いがあるというのは確かね。たとえばリンダ・ルメは私よりもずっと詩的で、素晴らしい作詞の才能を持っているわ。私たちはお互いにアドバイスできることはあっても、それぞれが自分らしさを証明しなきゃいけないと思ってる。
もしケベック出身の女性歌手ベスト10を選ばなければいけないとしたら誰ですか。
あらら!だって私まだこんなに若いのよ。ケベック出身のフランス語で歌う女性歌手を全員あげることさえできないのに...。でも順番に言うとすれば、セリーヌ・ディオン、ララ・ファビアン、イザベル・ブーレ、リンダ・ルメ、フランス・ダムール、それからナンシー・デュメかしら。
まだ6人しかいませんよ!
他にもいるはずだけど、英語の音楽もたくさん聴くから!英国に6か月滞在して、今はヨーロッパを走り回っているから、ケベックの音楽については、だんだん分からなくなってきてるの、正直に言うと...(苦笑)。
じゃあ、その10人の中に自分を入れるとしたら、何位になりますか。
たぶんフランス・ダムールとナンシー・デュメの間!
生物学者になりたかったそうですが、後悔はしていませんか。
ええ。確かに最終学年で、この夏から研究室での研究を始めなければいけないの。でも自分のやっていることをとっても愛しているから。それに大学に戻ろうと思えば後からでも戻れるし...。」