ジャック・デリダ『グラマトロジーについて(下)』

■ジャック・デリダ『グラマトロジーについて(下)』を読み終えたが、予想に反して始から終わりまでルソーの諸作品についての綿密な読解で、読み通すのにかなり集中力を要した。基本的にデリダの読解の方法というのは、ルソーが作品で言おうとしていることと、意に反して伝えてしまっていることの矛盾を突くという方法になっている。
つまり、ルソーの書いていることを精密に読み込んでいくと、あちらこちらに論理的に矛盾するところが出てくる。でもその矛盾は、ルソーの論理的思考能力に限界があるからだとか、不注意によるものだとかいうのではなくて、いわば起こるべくして起こった矛盾だというのが、デリダの読み方になっている。
書くという行為を通して自分の言いたいことを自分で確認しようとすればするほど、意に反してそれとは反対のことを読者に伝えてしまうのは、書くという行為そのものがそのような性格をもっているためである。デリダは書くという行為について、そんな考え方を持っている。
ふつう僕らは、何かを書くからには、自分で「これについて書くんだ」と思っていることがあって、書くという行為は、あらかじめ僕らの頭の中に存在する「書かれるべきもの」をそのまま文字として書き記すだけだと考えている。たしかにこういうのがごく一般的な書くという行為についての考え方だが、本当にそうなの?というのがデリダが僕らに投げかける本質的な疑問だ。
そういうわけで、僕はこの調子で今度は『エクリチュールと差異』を読み始めなければならない。
しかしどうして僕は今ごろになって初めて『グラマトロジーについて』を読み、しかも日本語訳で、下巻だけを読むなどという妙なことをしているのだろうか。