スピヴァク『グラマトロジーについて』英語版序文

■先週、近所の図書館でふと『デリダ論』というタイトルが目に止まってしまったので、文庫サイズということもあり、ガヤトリ・C.スピヴァク著『デリダ論―『グラマトロジーについて』英訳版序文』(平凡社ライブラリー)を借りて読み始めている。この本は2005年に出版されたものだが、原著のスピヴァクによる英語版序文は1976年に出版されている。30年の年月を経て今ごろスピヴァクの序文の翻訳が出版されたのは、「追悼デリダ」ということらしい。
(ご存じない方のために付け加えておくと、デリダというのはフランスの現代哲学者の名前で、日本の哲学研究家の間では1980年代にかなり「流行」した。2004年に死んでいる。どういう思想を考え出した哲学者かと言うと...とっても説明しにくい。というより、僕はいまだにデリダの思想を正しく理解している自信が持てない)
ところで、いつになったら僕はデリダをあきらめられるのだろうか。僕がデリダをあきらめられない理由は、僕が「いつかはきっとデリダを正しく理解できる」と考えていることにある。
今よりもフランス語やドイツ語が読めた学生時代、デリダの思想に強くひかれ、『エクリチュールと差異』のゼミに出席したり、高橋哲哉の講義に出席したりしながらも、結局のところデリダを「正しく理解」することができないまま終わった。卒論にデリダを引用しているにもかかわらず、である。
社会人になってからも、数年に一度は思い出したようにデリダ関連書を読んだり、『序文』にも書かれているように、デリダが差延というキーワードの着想をそこから得ているフッサールやフロイトといった思想家の本を読んだり、このまま死ぬまで「デリダを正しく理解する」という欲望から逃れられないのではないか。
しかし、いつまでたっても正しく理解できないというのが、正しいデリダ理解なのではないか。今日、ふとそんなことを考えた。