サンライズ製作のアニメーション『プラネテス』

■先日『新世紀エヴァンゲリオン』に比肩するアニメーション作品を教えてほしいと呼びかけたところ、とある読者の方から推薦のあった作品『プラネテス』のDVDを近所のTSUTAYAから借りてきてパソコンのDVDドライブで観てみた。どうやらNHKで放送されていたサンライズ制作の作品らしい。
推薦して頂いた読者の方にはたいへん申し訳ないのだが、『少女革命ウテナ』やガイナックス作品の『フリクリ』など榎戸洋司脚本作品と比較すると、その凡庸さは際立ってしまう。おそらくこの読者の方は、僕のようなアニメーションになじみのない会社員にとっては『プラネテス』のような作品がいちばん「オタ臭」もなく、入門作品として最適だろうという考えから紹介して頂いたのだと思う。本当はもっとマニアックな作品をたくさん観ていらっしゃるのだろうが、その中から僕にとっていちばん入りやすいものをお勧め頂いたのだと想像する。
たしかに僕自身が勤務先のアニメーションにまったく関心のない同僚から、「最近のアニメでオタクっぽくないやつで何か面白いのない?」とたずねられたら、迷わずこの『プラネテス』を勧めるだろう。『プラネテス』をひとことで言うと、SFアニメに姿を借りた典型的なサラリーマン悲哀劇である。
主人公たちはとある会社組織の中で最も泥臭い、宇宙空間の廃棄物回収という肉体労働を行う部署で働いている窓際族だ。そこへ理想に燃えた元気のいい女性新入社員が入社してきて、日々の仕事に流されているだけの先輩社員たちと対立しながらも成長していくという、絵に描いたような「サラリーマンもの」なのだ(TVドラマの『ショムニ』を見たことがないが、たぶん同じような感じだと想像する)。
もし僕が典型的なサラリーマンであれば『プラネテス』に熱中したかもしれないが、残念ながら僕が見たかったのは『少女革命ウテナ』や『フリクリ』のように、アニメーションでなければできない表現を追及したアニメーションらしいアニメーション作品なのである。
『プラネテス』はその物語を抽出してコミックにもできるし、お金をかければ実写ドラマにもできる。70年後という舞台設定を変えれば若手社員が喜んで読みそうな高杉良風の小説にもなる。つまりアニメーションである必然性はまったくなく、アニメーションという表現形態は物語を語るための単なる手段に堕してしまっている。
他方、『少女革命ウテナ』や『フリクリ』は明らかにアニメーションでなければ表現できない表現になっている。これらの作品は文字どおり僕らが見たこともないような「現実」を描いている。『少女革命ウテナ』に登場する巨大壮麗な構造物としての「学園」や、「外の世界」のニセモノである失踪する巨大な宮殿といったものは、そのまま僕らの悪夢に出てきそうなほどの存在感をもって描かれる。そして『フリクリ』はおそらく何重ものメタ・アニメーション、メタ・コミックとしての重層構造をもっている。
小説には小説でしか表現できない「現実」や「実在」といったものがあり、アニメーションにもアニメーションでしか表現できないそれらがある。『新世紀エヴァンゲリオン』が素晴らしい作品だったのは、どこまでいっても終わらない謎解きを許すようなサインがあちこちに散りばめられていたからではなく、アニメーションでしか表現できない「地球大の綾波レイ」や「使徒」などといった、やはり悪夢に出てきそうな「現実」を僕らの目の前に現前させることに成功していたからなのだ。
『プラネテス』の宇宙生活の描写にも確かにリアリティーはあるが、それは単なる「70年後の僕らの退屈な日常生活」でしかない。たまたま近未来を舞台に置いているだけであって、そこに描かれているのは僕らが生きている日常である。その日常では、僕らはかんたんに「理想と現実」といった二項対立を前提し、その相克の中で悩みながら生きているというステレオタイプを当前のこととして受け取って生活している。
しかしその「理想と現実」の二項対立というステレオタイプは、僕らが退屈な日常生活を生き抜くための一つのフィクションに過ぎない。現に僕らは理想を云々する以前に、すでに会社員生活を始めてしまっている。会社員はあたかも追及すべき理想が会社員生活の中に存在するかのようにして、会社員生活に意義があるかのような幻想を、自分自身に対して作り出しているのだ。
そんな会社員である僕にとって、本当にリアルなもの、現実的なものとは、「そのものとしてしか存在することができず、それ以外のものとしては存在できないようなもの」のことである。例えば巨大壮麗な「学園」というわけのわからない存在が『少女革命ウテナ』以外にそのようなものとして存在しうるだろうか。少年の頭から生えてくるロボットといったものが『フリクリ』以外にそのようなものとして存在しうるだろうか。
『少女革命ウテナ』でなければ現前させられないような現実、『フリクリ』でなければ現前させられないような現実があるからこそ、これらのアニメーション作品は本当の意味で「リアル」たりえているのだ。