劇場版『少女革命ウテナ アドゥレセンス黙示録』

■次に幾原邦彦監督『少女革命ウテナ アドゥレセンス黙示録【劇場版】』(1999年)の方だが、こちらにはもうお手上げといった感じだ。観た後の感じは、舞王城太郎の『阿修羅ガール』や、高橋源一郎が美内すずえの『ガラスの仮面』をパロディーにした小説の読後感と極めて似ている。
メールでこの作品を推薦して頂いた方の言葉どおり、題名だけを見ると『ベルサイユのばら』のような宝塚的世界観のコテコテの少女マンガだという先入観を抱いてしまうが、観終わった後にはこれが完全な誤解であることがわかる。
正直この劇場版の冒頭20分くらいは、「やっぱりこれって女性同性愛の宝塚的世界の貧弱なパロディーじゃないの」という不安を抱かせたのだが、そのまま観つづけていると、「革命」や「王子さま」「薔薇の刻印」「外の世界」といった意味ありげな言葉や役割、小道具、環境が、ほぼ完全に奥行きや深さといったものを持たず、どのような読み込みや解釈も許さない純粋な現前、ソシュールの言語学の概念を借りれば、シニフィエを欠いたシニフィァンであることが分かってくるのだ。
まったく意味づけや奥行きを欠いたまま、すべての舞台装置が、それ自体何だかわからない出口のようなものに向かって、後に残るものを瓦解させながら疾走していく様子、そしてその疾走が女性同性愛描写と、「絶対」「運命」「黙示録」という、またしてもシニフィエを欠いたシニフィアンの連呼とともに廃墟へ突き進んでいく描写は、『少女革命ウテナ』という題名からくるあらゆる事前の想定を裏切った、純粋表層とでも言ったものを見せてくれる。
このような表現はアニメーションでしか表現できないという意味で、たしかにこの作品はアニメーション表現の一つの極北を示している。この作品を観て「何のことだかさっぱりわからん」という感想しか漏らせない人は、すべての芸術作品は何かを表現するために作られているという根本的な誤解をしている人に違いない。
確かにある時代までの芸術は何かを表現するための手段でしかなかったが、いまや映画も、小説も、音楽も、絵画も、それ自体として立ち上がってくる表現になり得ている。それと同じようにこの『少女革命ウテナ』も、何かを表現するための手段に成り下っていない、それ自体で僕らの目の前に立ち上がってくる現前そのものたりえていることは、ただ驚きである。
ネットで調べて分かったのだが、監督の幾原邦彦氏は1964年生まれで『美少女戦士セーラームーン』シリーズのディレクターだ。なるほど。そういえば僕が学生時代、同じ研究室の助手さんはバリバリのシュールレアリズム研究者でありながら(というより、そうであるからこそ)『美少女戦士セーラームーン』にハマっていたことを思い出す。

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