『交響詩篇エウレカセブン』の単純な二元論的世界観

■以前から気になっていた『交響詩篇エウレカセブン』というアニメーションをインターネットのストリーミング放送で見た。見たといっても、前半のダイジェスト編と最新回だけだ。気になっていた理由は、どこかでちらっと目にした番組宣伝で、ロボット(という表現が適切なのかどうかわからないが)のデザイン、それに乗り込む戦闘員が少年・少女であること、宣伝に曰く「独特の世界観」を「壮大なスケールで描く」ということなどが『新世紀エヴァンゲリオン』を想起させたからだ。
(もう一つ、「エウレカ」という言葉が、言うまでもなく古代ギリシアの数学者アルキメデスが叫んだという「我、発見せり!」、別の日本語表記では「ユリイカ」であることから、きっと少しインテリぶった設定のアニメーションなのだろうと想像したこともある)
実際に見てみての感想は、単純に失望である。この『交響詩篇エウレカセブン』は確かに多くを『新世紀エヴァンゲリオン』に負っている。ロボット(という表現が適切なのかどうかわからないが)は半分機械、半分生物のような存在であること。主人公の少年が過去にトラウマを抱えていること。その少年が思いを寄せる少女が人間ではないこと。話の途中でその少女の身体が融解して形を失いそうになること。少年が怒りに我を忘れて血みどろの戦闘シーンを演じてしまうこと。などなど、類似点をあげればきりがない。
しかし『新世紀エヴァンゲリオン』との決定的な違いは、『交響詩篇エウレカセブン』が話のはじめから非常にシンプルな二元論に立脚している点だ。『エウレカセブン』では男は女を守るために戦うという、極めて保守的な男性原理/女性原理の二元論が貫いている。また、地球が対立する二つの陣営にわかれて戦っている点もシンプルな二項対立の図式だ。
この2つの二元論的症状だけで、せっかく『新世紀エヴァンゲリオン』が開拓した日本アニメーションのサブカルチャー的極北を、『エウレカセブン』があっさり捨て去ってしまっていることがわかる(同じ角川書店『少年エース』連載なのに)。『エウレカセブン』には、すでに一般大衆のために消費しやすく俗化されてしまったニセの「サブカルチャー」しか存在しない。
この「愛と苦悩の日記」の読者でアニメーションやコミックに詳しい方。どうか『新世紀エヴァンゲリオン』から僕が受けた衝撃を、もう一度体験させてくれるような作品を紹介していただけないだろうか。